平洲塾139 尾張藩での貢献(1)

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ページ番号1004561  更新日 2023年2月20日

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名君徳川宗睦の招き

前号まで数回にわたって、遠い東北の地山形県内の出来事を主に、「江戸時代の市民交流・とくに学者と商人の交流」についていろいろな事例を紹介しました。お読みになった方は、「それでは、細井平洲先生は他国の出来事にばかりかかずらって、生まれ故郷である尾張国〈おわりのくに〉(愛知県)には、全く関心を持たずに何の貢献もしなかったのか」という疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。そうではありません。平洲先生は、ふるさとの尾張国についてもいろいろと貢献をしました。尾張藩の藩校明倫堂〈めいりんどう〉の復興や、そこの責任者となって藩の武士や一般市民の教育にも努力しています。
平洲先生を、「侍講〈じこう〉」として招いたのは、九代目の尾張藩主徳川宗睦〈むねちか〉です。平洲先生を招いたのは、平洲先生と米沢藩主上杉鷹山との血の通った温かい交流を見て、「わが領内にこんな立派な先生がおられたのか」と改めて感じ、平洲先生に、「鷹山公へのご教導まことに感動いたしました。ぜひ、わが藩にも出でなって藩士並びに藩民の教育に当たっていただきたい」と懇篤〈こんとく〉に頼みました。平洲先生は快諾〈かいだく〉しました。平洲という号は、尾張国知多郡平島〈ひらしま〉村からとったものだからです。それだけ平洲先生にも郷土愛がありました。宗睦にすれば、あるいは、「わが尾張藩に生まれた人物でありながら、他国の大名に重用されて地元では全く目を向けていない」などと言われるのが嫌だったのかも知れません。しかし宗睦はそういう狭い考えで平洲先生を招いたわけではありません。宗睦も名君です。かれが平洲先生を招いたのは、自分が告げたごとく、「平洲先生と上杉鷹山との美しい師弟愛」に感動したからです。
「鷹山公と同じように、わしも平洲先生と美しい人間関係を結びたい」と考えてのことでしょう。

尾張徳川家の発祥

尾張徳川家は「徳川御三家の一」といわれます。徳川御三家は、徳川家康の九男・十男・十一男という三人の男の子のために家康が用意した分家です。
「徳川本家に何かあって、相続人が絶えた時はこの御三家の中から後継者を出してもらいたい」と目的があったと言われます。あるいは、「本家に相続人が絶えた時は、御三家が主体となってよく相談をして後継者を定めてほしい」という意味もあったと言われます。いずれにしても、年長順にいえば尾張徳川家の初代藩主になった義直〈よしなお〉が一番年嵩〈としかさ〉ですから、御三家の中でも尾張徳川家が最も威を振ったのはいうまでもありません。創立者の義直もまた名君と言われています。
義直が生まれたのは慶長5(1600)年11月28日のことです。生まれた場所は大坂城西の丸でした。最初の名は五郎太丸といい、やがて義知・義利そして義直と改めました。家康が59歳の時の子です。そのためか、家康は義直を非常に可愛がりました。慶長8(1603)年の1月、まだ数え4歳でしかない義直を甲府25万石の城主にしました。ただ、傳役〈もりやく〉として家康の忠臣平岩親吉〈ひらいわしんきち〉がつけられました。平岩は義直の代わりに甲府城代を務め、民政で数々の実績をあげました。慶長12(1607)年3月に、清洲城主松平忠吉(家康の4男)が没しましたので、その後に家康は義直を配しました。この頃の尾張における拠点は、清州城です。禄高は、公称61万9500石でした。
やがて起こった大坂冬の陣・夏の陣の時に、義直は15歳であり、16歳でした。まだまだ、天下は空に戦雲が立ち込め、日本国の民は不安に慄〈おのの〉いていました。
「いつ、また大合戦が始まるか」という思いで、日々を送っていました。ですから、義直の幼少年時代はまだ戦時色が濃く、日本国が完全に平和にはなっていなかったのです。したがって、義直の家臣たちもまだまだ戦国色が強く、城内で武士たちが話すことも、「いつ、どこの合戦で、自分はこういう手柄を立てた」というような、合戦話に花を咲かせていて、家康が目指した、「平和な時代の武士の生き方として、儒学を学ぶべきだ」という、文教精神は到底行き渡らなかったのです。

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