平洲塾120「紀州藩でゆるやかな改革指導」

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ページ番号1004581  更新日 2023年2月20日

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紀州藩でゆるやかな改革指導

松平頼淳(まつだいら よりあつ)、宗家(そうけ)を継ぐ

西条藩主松平頼淳が宗家である紀州和歌山藩主になったのは、安永4年(1795)2月3日のことでした。名を治貞〈はるさだ〉と改めました。翌年2月15日に「中納言」に任官しました。そのため治貞のことを"黄門様"とよぶようになりました。黄門といえば"水戸黄門"が有名です。水戸藩主徳川光圀〈みつくに〉も権中納言だったので、そうよばれたのです。ついでに書いておけば、加賀百万石の前田家の当主も中納言です。やはり"黄門様"です。京都の朝廷にもお公家様で中納言は沢山います。"石を投げれば中納言に当たる"といわれるほど、中納言は多かったのです。

でもその中で水戸黄門だけが特別有名なのは、もちろん漫遊記(この話はフィクションです。光圀が旅をしたことは一度もありません)がかれを有名にしたことはまちがいありません。しかしそれよりも光圀が2代目の水戸藩主として、かずかずの善政(たとえば笠原水道の敷設)をおこなったために、住民がその徳を慕っていたのです。

頼淳も同じです。平洲先生の教えをうけつつ、頼淳は「紀州藩主としての指標」を5代藩主の吉宗にもとめました。吉宗は8代将軍になり、"享保の改革"を展開して、"幕府中興の祖"といわれた人です。将軍になってからのかれの政治は、名江戸町奉行大岡越前守忠相〈ただすけ〉とのコンビで、庶民を大事にする政策をおこないます。「民〈たみ〉の声をきく」ということで「目安箱」を設置します。もちろん現在の民主主義の基盤である"主権在民"を実行したわけではありません。逆に吉宗は、「徳川家ならびに幕府の権威をたかめよう」と考えていました。「そのためには民意をきいて政策化し、国民に信頼される政府をつくろう」ということです。吉宗の改革はあくまでも「徳川家と幕府の強化」が目的であって、国民のためではありません。

その意味では平洲先生も「将軍を否定しよう」とか「幕府をひっくりかえそう」というような、過激な思想家ではありません。いわば「体制肯定派」といってよいでしょう。

平洲先生はゆるやかな改革者

ただ平洲先生は「体制が民を苦しめる場合は身近なところから是正する」という信念を貫いた人物です。そのことを自分を招いた大名家(藩)から実行したのです。いまでいえば、

  • 地方から改善する。
  • その積みかさねによって中央政府(国政、幕府の政治)に影響を与え、改善していく。

という考えをもっていました。「体制内改革派」といってよいでしょう。革命家(たとえば大塩平八郎)のように一挙に体制に体当たりするのではなく、時間をかけて相手を納得させながら徐々に悪いところを改善していく、という改革家です。したがって幕末になって一挙に爆発する"討幕(幕府を武力行使によって討滅する)思想"は先生にはありません。おだかやかにやさしく、"恕の心"を伏流水にしながら、時間をかけて改革していく、というのが先生の考えだったと思います。

さて吉宗は「目安箱」を紀州藩主時代にすでに設置しています。先日、和歌山城の取材にいって、ボランティアの説明者から設置場所や設置目的を教えられました。そうだったのか、と思ったのは、「投書者は城内の武士に限る」と投書資格を限定してあったことです。

それが江戸で実施された時は、武士以外の一般庶民にまで投書資格をひろげました。ぼくは歴代将軍の中で、「はじめて市民を政治行政の対象にした」のは吉宗だったと思っています。かれは、

  • 自分は倹約を実行する。
  • 城の武士の綱紀を粛正する。
  • 藩内産業を振興する。
  • 藩民の道徳を奨励する。

などをおこないました。

古代中国の唐〈とう〉という国の2代目の皇帝太宗〈たいそう〉は、『貞観政要〈じょうがんせいよう〉』という本の中で、「君は船なり、民は水なり」といっています。これは「船である治者がよい政治をおこなっていれば、水である民はしずかに船を浮かべてくれる(支持してくれる)。しかし悪政をおこなえば水は怒り、波を立てて船をひっくりかえしてしまう」という意味の言葉です。

「治者と被治者」の関係を巧みにとらえた考えですが、徳川家康は『貞観政要』を座右の本としていつも心がけていたといわれます。もちろんタヌキおやじのことですから、「民はそれほどゆだんがならない存在だ」という警戒心のほうがつよかったでしょう。

新和歌山藩主徳川治貞(西条藩主のころは松平頼淳)が、「吉宗公にまなぼう」ということ、その言行と政策のうけとめ方に、どのていど"愛民の思想"があったかはわかりません。つまり、「徳川御三家のひとりとして、宗(本)家である徳川家の権威をもっと高めよう」と意図したかどうかはわかりません。しかし平洲先生はちがったと思います。少なくとも、「藩民の視点で紀州(和歌山)藩政を考えよう。そういう考えで学問の指導をしよう」という姿勢は一貫していたと思います。

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