平洲塾111「平洲先生の変わった門人(1)」
平洲先生の変わった門人
号は平洲先生の出身地
細井平洲先生の名が有名になると、門人もふえました。中には、平洲先生を誤解する人物もいたようです。つまり、江戸で塾を開きながらも、毎日のように両国橋のたもとに行って庶民に講義をしている、ということをきいたために、「細井先生はさぞかし変わった学者なのだろう。奇人学者に違いない」と思い込んで、変わった人物が弟子入りを希望することもありました。今回書く菅原東海〈すがわら・とうかい〉はそのひとりです。東海は仙台の出身ですが、本名を基、通称を文蔵といいました。しかし号を東海と名づけました。この号はおそらく平洲先生が、尾張国(愛知県)の知多半島の出身なので、この地方は古くから東海地方といわれていました。それにあやかったのだと思います。現在平洲先生の生地は東海市に属しています。
東海は、子供のときから学問が好きで、「将来儒学をもって立ちたい」という志を持っていました。その儒学を学ぶ師として、「今この国(日本)で師と仰ぐべきは、たったひとり細井平洲以外ない」と心を決めました。上京して江戸に入りましたが、特段知人もいません。平洲先生への紹介者もいません。そこで、平洲先生が塾を開いていた近くの新川の船頭の家に身を置きました。そして平洲先生に弟子入りを頼み、許可されました。ほとんど食うや食わずの貧乏暮らしを送りながら、一所懸命学んだおかけで儒学をかなり修めることができました。そこで、世話になった船頭に保証人になってもらって、塩町というところにあばら屋をみつけてここで塾を開きました。変わった人物ですが、学問は深いので次第にその名が知られ、弟子になる者もふえてきました。さらに東海にとってうれしかったのは、奥州(東北)の会津藩主と、九州の佐伯藩の藩主の二大名が、「我が藩に来て、教育の顧問になってほしい」と頼まれたことです。高い報酬をもらって、今までの貧乏生活が一遍に消えてしまいました。しかし彼の性格は強情で、人間嫌いで、他人と仲よくすることを嫌ったためにあまりつき合う人がいませんでした。平洲先生の弟子の中でも、彼とつき合ったのは昆子典と中西伯温の二人ぐらいだといわれています。高額の収入があったにもかかわらず、家は始終貧乏をしていて、仕える老僕は常に金の工面に苦労をしました。しまいには、自分でわらじをつくってそれを売って家計の助けにしたほどです。いったい高い報酬はどこへいってしまったのでしょうか。ぼくにも東海の金使いについては細かい調査ができません。いずれにしても、この奇人学者は始終懐〈ふところ〉がぴいぴいしていて貧乏な暮らしを送っていたそうです。
老僕を送る孤高なくらし
彼に仕える老僕が内職のわらじをつくるものですから、その原料のわらが家の中にたくさん散っていました。しかし東海は平然として、わらの中で本を読んでいたそうです。老僕が時折、「先生、わらが飛んで申しわけありません」と謝ります。東海はそのたびに、「いや、わしのためにおまえが内職をしているのだから気にはならぬ。また気にしたらおまえに済まない」と逆に謝〈あやま〉っていたといいます。あるとき芳野金陵〈よしの・きんりょう〉という若い学者が訪ねてきました。そのときの金陵の印象では、「東海先生は背が高く、鼻も高い。目が細くて頬骨も高い。とにかく顔つきは立派だった」と観察しています。東海は梅の紋のついた麻の着物のぼろぼろになったのを着ていて、破れた袴をはいていました。金陵に、「おまえは酒を飲むかね」とききました。金陵が、「いえ、わたくしは飲みません」と応ずると、東海はそうかといって大きく笑いました。そして、「酒は人を狂わせるというからな。まあ飲まないほうがいい。が、別に酒は福泉ともいう。つまり、酒が福になるか災いになるかは酒そのもののせいではない。飲む人間にあるのだ。飲み方によって福になったり災いになったりする。わしはすでに老人だから、読書に飽きたときに少しばかり飲んで楽しんでいる。したがってわしにとって酒は本当の福泉だ。そのために、ときには天下を憂えて大いに飲み、羽目を外すこともあるのだ」と愉快そうに語りました。金陵が、「先生のご出身地である仙台に、すぐれた人物がおりましょうか」ときくと、「いや、ひとりもいない。いやひとりだけいる。それは林子平〈はやし・しへい〉だ」と答えました。林子平も当時“寛政の三奇人"と呼ばれたひとりですから、奇人同士でお互いに認め合っていたのでしょう。林子平はその論の中で、「ロンドンのハドソン川と、江戸の隅田川の水とはつながっている。イギリスが水路を伝わって日本を攻めることもできるのだ。警戒するにこしたことはない」と、鎖国している日本への列強の侵略を憂えていました。しかし、これは幕府の政治を批判するものだとして、子平は罰されました。罰として、彼の出版物はすべて禁止になりました。当時の出版は、木に字を彫りつけて印刷していました。そのもとになる板を版木といいます。出版禁止で子平の版木は割られてしまったのです。彼は落首を詠みました。
「親もなく妻なく子なく版木なし金もなければ死にたくもなし」歌の中に「ない」という対象が六つあるので、彼は「六無斎〈ろくむさい〉」と号しました。
(つづく)
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