平洲塾116「米沢藩以外の藩の指導(1)」

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ページ番号1004585  更新日 2023年2月20日

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米沢藩以外の藩の指導(1)

平洲先生がかかわった大名家

細井平洲先生といえば、米沢藩主上杉鷹山とのかかわりがあまりにも有名です。しかし平洲先生は米沢藩の世話だけを焼いていたわけではありません。ほかの藩(大名家)の面倒もみています。面倒のみかたは、藩主が平洲先生にぞっこん入れ込んで、「ぜひ、我が藩のご指導を願いたい」という場合もあれば、藩主自身が平洲先生の直接の指導を願うなどその形はいろいろありました。藩の中に平洲先生を尊敬する学者がいて、その学者が仲介者になって、「我が藩の指導をお願いしたい」といった場合もあります。東海市教育委員会発行の平洲先生に関する資料の中に、『嚶鳴館遺稿注釈諸藩編』というのがあります。ほかの資料と同様に小野重伃〈おの・しげよ〉先生がお書きになったものです。平成17年という今から十年以上前に出版されたものですが、小野先生の記述が非常におもしろい本です。先生は、単なる注釈だけではなく、「私感(コメント)」を折々付されていますが、このコメントが非常にアップ・ツウ・デイト(今日的)であって、しかも歯切れがいいのです。ぼくは江戸(東京)以外故郷を持っていませんが、まるで江戸っ子のようなきっぷのよいの文章です。読んでいて、胸がすっとします。そういう爽快感が小野先生の文章の随所にあります。楽しいだけでなく、(ああ、そういうことだったのか)と教えられることもたくさんあります。この小野先生の『嚶鳴館遺稿注釈諸藩編』を基盤にしながら、多少ぼくなりの解説を加えて、「平洲先生と他藩とのかかわり」について、今回から少し書いてみようと思います。

小野先生のご著書によれば、平洲先生が米沢藩以外でかかわりを持ったのは次の諸藩です。

西条藩(愛媛県)・紀州藩(和歌山藩、和歌山県)・大和郡山藩(奈良県)・出石〈いずし〉藩・(兵庫県)・郡上八幡〈ぐじょうはちまん〉藩(岐阜県)・人吉〈ひとよし〉藩(熊本県)・松山藩(愛媛県)・延岡藩(宮崎県)・村上藩(新潟県)などです。最初に、米沢藩の藩主だった上杉鷹山と同じように、平洲先生に私淑〈ししゅく〉し、自身だけでなく藩士の指導をも依頼した人物として、紀州藩主徳川治貞〈とくがわ・はるさだ〉を紹介します。

徳川治貞のこと

徳川治貞は前名を松平頼淳〈まつだいら・よりあつ〉といって、はじめは西条藩主でした。紀州藩6代目の藩主だった徳川宗直〈むねなお〉の次男です。紀州藩と西条藩のかかわりは、寛文10(1670)年、紀州藩主徳川頼宣〈よりのぶ〉(初代)の次男松平頼純〈よりずみ〉が西条藩主になったときからはじまっています。西条藩は3万石の大名です。そのため、西条藩主が、本家である紀州藩のやり方に倣〈なら〉って、行政をおこなっています。

西条藩主は定府〈じょうふ〉(江戸に常にいること)でした。頼純の子頼致〈よりよし〉(西条藩2代藩主)は享保元(1716)年に、宗家の和歌山藩を継いで、紀州藩6代藩主徳川宗直〈むねなお〉となりました。そのため西条藩では頼純の6男頼渡〈よりただ〉が3代目の藩主になりました。頼渡の跡は頼渡の長子頼邑〈よりさと〉が家を継ぎましたが、病弱でしたので、紀州藩の紀州藩6代目の藩主徳川宗直の次男頼淳〈よりあつ〉が5代目の藩主になりました。前に書いたように頼淳はやがて宗家の紀州藩の藩主になります。西条藩5代目の藩主になった頼淳は、実にその治世は23年に及んだといいます。安永4(1775)年に本家の和歌山城に戻りました。名も頼淳から治貞に改めました。

江戸定府の光と陰

前に書いた「江戸定府」というのは、当時の大名に課されていた「参勤と交代(参勤は江戸城につとめ詰〈つ〉めること・交代は任期が終わって領地へ戻ること)を免除されるということです。免除されるというのは幕府側の言い分であって、大名側からすれば、「いつも江戸に在勤を求められる」ということで、あまりありがたいことではありませんでした。というのは、当時の大名の財政支出は、

  • 国元における行政費や家臣の給与。
  • 江戸における参勤用の費用や、各方面に対する挨拶の費用。
  • 幕府が命ずる“お手伝い(幕府がおこなう工事費を大名が負担し、実際に工事の指揮をとること)"の費用。

などから成り立っていました。このうち一番藩財政を圧迫するのがお手伝いの費用と、江戸在勤の費用です。江戸在勤の費用は、江戸の生活様式やそれに要する物価高な費用負担をしなければなりません。しかし江戸は生産都市ではありません。消費都市です。そのため各大名とも江戸に屋敷を構えてはいますが、その屋敷の費用を含み江戸における諸経費はすべて、「国元から送金してもらう」というシステムをとっていました。これが国元においては大変な負担になりました。そして、「江戸藩邸のやつらは非常にぜいたくな暮らしをしている」という風聞〈ふうもん〉(うわさ)が飛び交いました。国元の武士たちは怒ります。

「我々は、食うや食わずで農民たちと苦労をしているのに、農民が汗と脂で納めた年貢も江戸のやつらは、湯水のように使ってしまう」という反江戸感情が湧きます。だから国元と江戸在勤者との間には必ずしも良好な関係が保たれていたわけではありません。家臣たちも次のように3種類に分かれていました。

  • 国元で採用され、国元から一歩も出ることのない家臣。
  • 国元で採用されたが、藩主が参勤のときは江戸へ供をしていく。交代のときにまた国に戻ってくる家臣。
  • 江戸で現地採用され、国元には一度もいったことのない家臣

です。
(つづく)

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