平洲塾107「吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(1)」

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1004594  更新日 2023年2月20日

印刷大きな文字で印刷

吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(1)

三月初旬に突然倒れました。これは無理をしたというよりも、ぼく自身の反省によれば「長年の不養生〈ぶようじょう〉」だと思います。51歳まで30数年、ぼくは東京都庁に勤めましたが、在職中一度もいわゆる「健康診断」を受けたことがありませんでした。当日になると逃げまわっていました。それは「健康診断を受ければ、必ずどこか悪いに違いない」という怖〈おそ〉れがあったからです。つまり、健康に対して臆病〈おくびょう〉だったのです。退職後、すでに36年経ちますが、未だに体に故障を覚えたことはありませんでした。それが突然歩けなくなり、また尿〈にょう〉が体内に溜〈たま〉って出なくなりました。お腹〈なか〉が破裂しては困ると思い、ついにお医者さんに行きました。診断は「前立腺肥大〈ぜんりつせんひだい〉」と「脱水状況」ということでした。高齢(87歳)なので、お医者さんが「手術をせずに薬で治しましょう」ということで、今も薬による加療が続いています。そのために、先月は原稿を書くことができずに、大変ご迷惑をおかけしました。お許しください。

前にも書いたことがあると思いますが、ぼくは今「農協全中(全国農業協同組合中央会)」の研修のお手伝いをしています。テキストとしていつも使わせていただいているのが細井平洲先生の『嚶鳴館遺草』です。4年前の「東日本大震災」の復興もそうですが、農協の改革をはじめ、およそ「改革」を行なおうとする諸組織においては、この『嚶鳴館遺草』(以下単に『遺草』と書きます)は、実に有効なテキストなのです。東海市発行の『東海市史・資料編』が、この「遺草」の全文を載せていますが、これほど平洲先生について学ぶ者にとって有難い資料はありません。ぼくも、随分とお世話になり、古い市史が傍線で真っ赤になってしまったので、特に市にお願いして新しい市史を頂戴した次第です。

この本の『遺草』の解説に、「この『遺草』は、幕末に吉田松陰と西郷隆盛が感動して読んだ」という意味のことが書かれています。そして、「西郷は、この本から彼の思想である『敬天愛人〈けいてんあいじん〉』を生みました。そして吉田松陰は、『この書こそ、経済の何であるかを的確に告げたものだ』という意味のことを語った」と書かれています。後に人によっては「本当に西郷や松陰がそんなことを言ったのか」という疑問を持った方もおられるようですが、ぼくはこういう問題は、「歴史におけるもし」に類することであって、「この二人なら、おそらく『遺草』に影響を受けたに違いない」という推測は、決して間違いではないと思います。それは西郷や松陰の言行を振り返ってみればよくわかります。まず、二人は「農業」に生涯関心を持っていました。したがって、それを行なう農民に対しても深い愛情を持っていました。『遺草』から西郷が最初学んだのは、平洲先生の「愛民〈あいみん〉」の意味だったと思います。『遺草』にまとめられている平洲先生の遺稿の目的は、まず出羽国〈でわのくに〉(山形県)米沢藩上杉家の財政再建が目的でしたから、当然それは当時の「主税」である、米の増収や、他の農作物に付加価値を加えて、市場価値を高めるということ以外ありません。

つまり、「土から生む物」に対しての、いろいろな考え方や方法が語られています。土を耕すのは農民です。したがって平洲先生が最初に改革の担い手として重視したのは当然農民のはずです。『遺草』では、「その農民を愛さなければならない」と告げています。これは、古代中国の思想家孟子〈もうし〉のいう、「まず、民〈たみ〉を貴〈とおと〉しとすべし」という考えに通じます。しかし西郷は、明治維新を実行後、新しい日本の政治を背負って立つ人物の一人ですから、ただ農民だけを愛するというわけにはいきません。そこで民を「人」にかえて、「治者は、すべての日本人を愛すべきだ」という発想に基づいて、「民」を「人」にかえたのだろうと思います。
(つづく)

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 平洲記念館
〒476-0003 愛知県東海市荒尾町蜂ケ尻67番地
電話番号:052-604-4141
ファクス番号:052-604-4141
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。