平洲塾112「平洲先生の変わった門人(2)」
平洲先生の変わった門人(2) 寛政の三奇人
前回ご紹介した平洲先生の門人菅原東海〈すがわら・とうかい〉は、仙台の出身でした。ですから他人から、「どなたか尊敬する学者さんがいらっしゃいますか」ときかれると、東海は、「もちろん、わしが師と仰いでいる細井平洲先生だけだが、強いていえば出身地の仙台に林子平〈はやし・しへい〉というのがいるよ」と答えました。林子平は、六無斎〈ろくむさい〉(親もなし、子なし妻なし版木なし、金もなければ死にたくもなし)と号した人物です。この林子平に高山彦九郎と蒲生君平〈がもう・くんぺい〉を加えて、「寛政の三奇人」といわれました。三人とも、奇行が多く、普通の人とはかなり違った生き方をしていたからです。高山彦九郎も平洲先生の門人です。彼は若いころ仇討〈あだう〉ちを思い立って、米沢(山形県)の上杉家におられた平洲先生を訪ねていきました。そして、自分の志を話しますと平洲先生は怒って、「今どき、仇討ちなどというばかな考えを持つのは時代遅れだ。考え直しなさい。そしてもっと学問を学びなさい」と説きました。彦九郎は平洲先生の言葉に感動して、仇討ちなどという暴力行為を諦〈あきら〉め、それからは、「日本のあちこちにいる、善行者を訪ねよう。そしてその善行を天下に知らせよう」と思い立って、諸国を遍歴しました。今、京都市の三条大橋のたもとに、高山彦九郎の銅像があります。どっかと座って、両手をついて皇居を仰いでいます。これは当時徳川幕府の勢いが強く、皇室や公家などに対する費用を幕府がけちっていたために、天皇も非常に粗末な暮らしをしておられたからです。皇居も塀が破れ、中の建物からのともしびが、ちらちらとみえるような具合でした。彦九郎は怒って、「朝廷のご衰微は、すべて幕府のせいだ」と憤〈いきどお〉りました。これはその彦九郎の怒りの姿を銅像にしたものです。
もう一人の蒲生君平も当時は、「奇行の多い人物」といわれました。彼は京都の等持院という寺を訪ねました。足利幕府をつくった尊氏の菩提寺で、等持院というのは足利尊氏の戒名です。ですから等持院内に尊氏の銅像がありました。蒲生君平はこの銅像を、持っていた木のつえでたたきました。
「この不忠者め!」と罵〈ののし〉ったといわれています。高山彦九郎も蒲生君平もともに、「勤王の志の厚い志士」といっていいでしょう。
林子平は「海国兵談」などを書いて、「日本は、国防力がまったく準備されていない。今外国に攻められたら、日本は滅びてしまう」と、国防の急務を唱え、特に蝦夷〈えぞ〉にロシアの脅威が強いと主張しました。しかし幕府はこの本を読んで、「この学者は、幕府の外交政策を批判している」という狭い考え方で、子平を罰してしまいました。そのときに子平が前に書いた“六無"の歌を詠〈よ〉んだのです。この中で版木というのは、当時の出版技術は木に活字を彫り込んで印刷していたので、怒った幕府が、子平の本のもととなる版木をたたき割ったということなのです。子平は何もなくなって、仙台へ護送されました。ここで監禁されて、孤独に死んでいきます。しかし子平にしても、私利私欲でそんなことをいったわけではなく、あくまでも、「日本国を守りたい」という憂国の情から本を書いたのです。のちになって、「林子平のいったことはすべて正しかった」という人がたくさん出ます。ただこのころは、子平はまだ、「早すぎた先覚者」の一人だったのです。この林子平を、菅原東海は同郷の先人として尊敬していました。おそらく、「自分の信念はどんなことがあってもぜったいに枉〈ま〉げない」という子平の生き方に胸をうたれていたのでしょう。そのために自分にとって欠くことのできない家族、財産、職業の必要品などを失なっても、平然と生きつづけた子平の強い姿勢に感ずるものが多かったのだと思います。
しかし、菅原東海は子平そのものになることはできませんでした。
それは子平のようにハイ・トーンの国防論を唱えることができなかったからだと思います。
学説を措〈お〉いて、子平の生活態度をとり入れようとしました。貧しさに堪えて忠僕〈ちゅうぼく〉とふたりだけのくらしに浸ったのはそのためだと思います。
そしておそらく両国橋のたもとで、平洲先生の講話姿に出会ったのでしょう。これは東海の求めていた、「期待する学者像」にピッタリ適合するものでした。
(つづく)
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