平洲塾117「米沢藩以外の藩の指導(2)」

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ページ番号1004584  更新日 2023年2月20日

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米沢藩以外の藩の指導(2) 藩財政のしくみ

貧しい四国の大名家

西条藩はいうに及ばず四国の諸藩は全体に貧しく、年貢(米)だけに頼りきることはできませんでした。

そのために、「金を生む産物」の生産に努力しました。例を挙げれば宇和島藩、吉田藩などでは、真綿〈まわた〉・麻糸・漆〈うるし〉・漆の実・薪〈まき〉・炭・糠〈ぬか〉・筵〈むしろ〉・畳・茶・楮〈こうぞ〉・竹・柿などがあり、また西条藩では紙を重視していました。今治藩の木綿〈もめん〉、松山藩の紙・茶・櫨〈はぜ〉、大洲〈おおず〉藩の紙・櫨などは、いわゆる農民が汗を流して丹精〈たんせい〉して育てた地場産業です。

四国の瀬戸内側を旅したことがありますが、そのとき列車に乗って窓から山側を眺めました。晩秋のときなので、山の裾が真っ赤に燃えています。が、これは普通にいう楓〈かえで〉の紅葉ではありません。櫨の葉です。櫨は真っ赤にもえます。やがて実をつけます。これがロウソクのもとになります。そこで四国の諸藩は、櫨を農民に植えさせ、しかもその実を「専売」にしました。

このころの藩財政は、幕府が発行する貨幣と、藩が発行する藩札によって運営していました。この二つを巧妙に使い分けるというのは、今の時代とは違って、例えば経済予測に基づいて、「日本で流通する貨幣はこのくらいあればいいだろう」という推測をした上で、日本銀行が紙幣を発行するというシステムではなく、当時の藩はいわゆる“十割自治"だったからです。十割自治というのは、

  • 各藩がそれぞれ藩民に対する行政計画を立てる
  • その費用はすべて藩が負担する

という仕組みです。だから今のように地方自治体が赤字に陥ったときに、国が「国庫補助金や地方交付税」を出して、これを補填〈ほてん〉するというような制度はありません。あくまでも、「生じた赤字は、藩の責任においてこれを負担しなければならない」ということになっていました。言葉は悪いですが、藩そのものが一種の「商事会社」になっていたのです。つまり経済やソロバン勘定を無視しては藩の経営が成り立たないわけです。

ここに江戸時代の藩の苦労がありました。ところが徳川家康は、慶長20年に豊臣氏を滅ぼしたあと、「これからの武士の心構え」として、林羅山〈はやし・らざん〉の主導により「儒教」を取り入れました。これは家康の治国方針です。

それまでの戦国時代には、「君、君たらざれば、臣たらず(主人が主人らしくなければ、部下も部下の責任を果たさない)」という考え方でした。これを“下剋上"といいます。しかし家康は、「日本国はあくまでも平和に経営したい」という平和志向論者でしたから、これでは困ります。儒教は、「大義を重んずる」という教えです。大義を重んずるというのは、「臣は君に対し忠節を尽くす」というものです。だから、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず(主人がどんなに能力不足であっても、部下は部下の責任を果たさなければならない)」という、主人にとって甚だ都合のいい考え方なのです。これを家康が取り入れ、以後260年間日本の武士を支配する軌範になりました。そして、身分制が設定されました。「士農工商」の区分です。農がなぜ2番目に位置したかといえば、明治維新までの日本の税制は米中心でした。これを年貢といいます。したがって年貢の納め手である農民を社会的ランクとしては武士の次に置き、ものづくり(工)をその次に位置させたのです。

藩士の勤務様態

商が一番劣位に置かれたのは、これも儒教の教えで、「商人はみずから何も生産しない。他が生産したものを動かすだけで利益を得ている」という考え方からです。そしてその行為を認めないから、商人には税制を課しません。したがって商人には、「可処分所得」がたくさん出ます。しかしこれを自分の生活に使ってしまえば、「商人の分際で、ぜいたくな暮らしをしているけしからん」ということになり、幕府から罰っせられ、追放になったり財産を没収されたりします。そのため都市部の商人たちは、可処分所得の使い方として、「文化育成」に着眼しました。江戸・京都・大坂・堺・名古屋・博多などの文化は極端にいえば、「商人が支えた文化」といえます。これはと目をつけた作家や画家、あるいは演劇人などに対し商人がパトロンとなって、その才能を大いに磨かせたのです。余計なことですが、今、北陸新幹線が通じて北陸方面の観光地が非常ににぎわっています。なかでも金沢を訪れる観光客がたくさんいます。しかし古い金沢人は、「金沢は観光都市ではない、文化都市だ」と気勢を上げます。これはそのとおりで、加賀100万石の始祖前田利家が、「北国を文化立国圏とする」という方針を立ててみずから文化育成に乗り出したからです。しかしここでも織物・陶磁器・金工品などの産品はすべて「専売制」がとられました。専売制というのは、

  • めぼしい産品は藩が専売する。
  • 生産者から藩が買い上げるときは藩札を使う。
  • 市場に出して売る場合には正貨(幕府発行の通貨)を受け取る。

というやり方です。藩札というのは、藩内では通用しますが全国的には使えません。商人はやはり全国的に使える正貨を求めます。しかし藩はそれに介入しました。つまり生産者からは、

  • 藩以外使えない通貨で買い上げる。
  • そして市場取引は正貨でおこなう。
  • したがって、藩の財庫には正貨だけが積まれることになる。

という仕組みです。

「あまりにも理不尽だ」ということが、生産者や豊かでない商人たちの間に起こり、やがてこれが「一揆〈いっき〉」に発展していきます。松平頼淳が西条藩主になった直後に、この種の一揆が起こっています。俗に「三万石一揆」と呼ばれます。それは西条藩の収入が3万石だったためです。
(つづく)

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