平洲塾115「続・平洲先生と門人たち(2)」

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ページ番号1004586  更新日 2023年2月20日

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続・平洲先生の門人たち(2)

「小語」の高山彦九郎

森銑三著作集の九巻目に「高山彦九郎」という人物が出てきます。前に一度紹介しましたが、(高山彦九郎のところを見れば、おそらく関連人物のことも書いてあるに違いない)と思ったのです。そのとおりでした。森先生の「高山彦九郎論」のところに、この「西沢曠野〈にしざわ・こうや〉」のこともはっきり書かれていたのです。それだけではありません。森先生の高山彦九郎の項目には、細井平洲先生のこともきちんと書かれていたので驚きました。森先生が資料として引用されているのが、菅茶山〈かん・さざん(ちゃざん)。1748-1827、儒学者・詩人〉の『筆のすさび』という本のことで、この本の中に「高山彦九郎の伝」という一章があって、彦九郎のことを知るのにはまことによい材料を提供しているということです。そしてさらに、「細井平洲の随筆『小語』には、彦九郎と、平洲門下の徳行家であった西沢曠野と、今一人佐柄木時貞〈さがらき・ときさだ〉との三人の孝心の深いことを述べて、何れも親を憶〈おも〉うて止〈や〉まない」

これで、すでに一本のつるについたお芋が三つも四つもふえました。しかし、ぼくの芋づる探索はこれで終わりません。さらに、この記述で関心を持ったのが、西沢曠野のことと、ここに書かれている佐柄木時貞のことです。それを調べるために、ここに引用されている細井平洲先生の『小語』という本を書棚から取り出しました。『小語』は、東海市教育委員会が平洲先生の資料として立派な本を出しています。この本も、平洲先生ご研究の第一人者である小野重伃〈おの・しげよ〉先生が訳されておられます。小野先生は、この小語について、「書簡にみられる和文の味を漢文に活かしたものだ」と書かれています。そのとおりで、「小語」はすべて漢文です。学問の浅いぼくにはすらすら読めません。したがって、今回の「小語」も、小野先生の訳されたものを勉強させていただいています。

「佐柄木時貞子幹〈さがらき・ときさだ・しかん〉は、東都(江戸)の人なり。西沢周子豊〈にしざわ・しゅうし・ほう〉(西沢曠野のこと)は、武(武蔵国)の与野〈よの〉郡与野の人なり。高山正之仲縄〈たかやま・まさゆき・ちゅうじょう〉(高山飛九郎のこと)は、上毛〈じょうもう〉(群馬県)の新田〈にった〉郡細谷の人なり。皆、能〈よ〉く親に事〈つか〉え、生けるには力を尽くし、死せるには思いを尽くしたり。語、偶〈たま〉たま其の生けるに及ぶや、感念の涙、下りたり。余、三生(佐柄木・西沢・高山の三人)と語りては、其の親を言い難りき」と漢文の原文を訳されておられます。もともと平洲先生の漢文もわかりやすいもので、それほど難しい字を使っているわけではありませんから、この訳文だけで意味はわかると思います。

「小語」の西沢曠野

小野先生が、さらに注釈を添えておられます。それによれば、西沢曠野の家は、現在の埼玉県与野市の地で、家は農業と質屋を営んでいたそうです。しかし曠野の代になって、彼は質屋業を嫌い、預かっていた証文を全部焼いて、質草をそれぞれ無償で借り主に返したそうです。仕事の合間には縄をなって側に寄る人々に古今の「嘉言善行〈かげんぜんこう〉(よい言葉やよいおこない)」を語り続けたそうです。里の人たちは、「西沢先生はまるで中江藤樹先生だ」と語り合ったそうです。中江藤樹は"近江聖人"といわれた江戸初期の学者です。"日本ではじめての陽明学者"だ」といわれた人物です。佐柄木さんについては、「伝記未詳」とされています。ぼくもいろいろな人物事典をめくってみましたが、この人のことを載せている本はありませんでした。

高山彦九郎は別ですが、今回出てきた西沢・佐柄木の二人についてもそれほど全国的に有名な人物ではありません。地域で「嘉言善行」を積んでいる人物です。何がいいたいかといえば、平洲先生はこういう人々に敬われ愛された学者さんなのです。今回の発見はぼくにとって大変うれしいできごとでした。"芋づる式"に、資料を次から次へとあたっていけば、ときにこういうダイヤモンドにぶつかることがあるのです。おそらく佐柄木さんも西沢さんも、泥を落として研磨機にかけて磨けば、必ずダイヤモンドになるような宝石です。高山彦九郎は、「寛政の三奇人」として有名です。寛政という時代に生きた三人の変わった人物という意味ですが、ほかの二人は林子平〈はやし・しへい〉と蒲生君平〈がもう・くんぺい〉のことです。そのため高山彦九郎は、その一面である、「尊王心の厚い人物」として世に伝えられていますが、高山彦九郎は単にそれだけの人物ではありません。おそらく彼の尊王活動が有名になってからのことでしょう。あるとき幕府の役人が彦九郎にききました。

「おまえは何のために日本の国内をあちこちと歩き回っているのだ?」

これに対し彦九郎は、「わたしは古書に載っている忠臣孝子の事蹟を読みますと、感慨に迫って涙にむせびます。書物で読んでさえさようですから、もし親しくこの人を見たならば、読書にもまさるであろうと思って、四方を訪〈おとな〉うのです」と答えました。そして彼自身、「乱世には武者修行と云〈いい〉て、天下を周遊する者あり。今治世なれば、徳義学業の人を尋ねあり(歩)くも、少年の稽古なりとおもひて、六十余州を遊観せんと志し、一冬袷衣〈あわせぎぬ〉一つを着て、露宿して試みしに風をもひかざりしによつて、出遊をはじめしなりしといふ」とみずから語っていたといいます。森先生はこのエピソードを紹介した後に、「すなわち彦九郎は、乱世の武者修行を治世(平和な世の中)に実行しようとしたのであつた。その周遊は、要するに生きた学問をしようとするにあつた」と書いていらっしゃいます。これは平洲先生が主張していた、「学問は常に生きていなければならない」ということに通じます。学問が生きているということは、「学んだことがそのまま社会活動に役に立つ」ということだろうと思います。

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