平洲塾119「平洲先生のみた西条藩主・松平頼淳」

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ページ番号1004582  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のみた西条藩主・松平頼淳(まつだいら・よりあつ)

頼淳の孝心

平洲先生は、西条藩主松平頼淳に非常に好感を持ったようです。おそらく平洲先生の持っている美しい魂に、松平頼淳が応〈こた〉えたのでしょう。ということは、頼淳もまた大名としては美しい魂を持っていたようです。ですから、音楽好きの頼淳に平洲先生が思いきって手製の大切な舞阪〈まいさか〉の笛を献上したのです。では、平洲先生がそれだけ入れ込んだ頼淳の性格というのは一体どういうものだったのでしょうか。小野重伃〈おの・しげよ〉先生の御作の中に、そのことが平洲先生のつぎの文に述べられています。

「藩主の御母君の古稀〈こき〉のお祝いに一介の処士が祝辞を述べる所以〈ゆえん〉を述べて、序言とする」

という文章で、明和3(1766)年3月29日に、松平頼淳は生母の70歳のお祝いの会をひらきました。平洲先生も招かれました。このとき平洲先生は、お祝いの言葉を申し上げました。それを小野先生の訳された文章をそのまま載せさせていただきます。

「つつしんで考えてみますに、お殿様は将軍家のお身内ということで、代々西条に諸侯として派遣されていらっしゃいます。御当家の高貴な爵位〈しゃくい〉も徳川御本家の恩恵故であり、本家の身内を大切にするという人間として当然の行ないは、とりわけすばらしいことであります。それ故に、門を赤く大きく構え、家屋を高く立派にそびえさせているのであります。食べ物として肥えた肉や旨いものを食べ、衣服として軽くあたたかいものを着、身づくろいとしていろいろの色を取り合わせて身につけ、見た目にも美しく化粧をし、なぐさめとして美しい音曲を聞いて楽しむことから、身の回りの用を足してくれる近侍や腰元、外出時の乗物や牛や羊などの諸動物に至るまで、総じて御母上様をお慰めし楽しませるものは、日常生活のいとなみのその出処進退において、活動するにしても休息するにしても、備わっていないものはないのであります。その上に、御母上様は人の子の母としての品性を失うことなく持ち続けていて、おしあわせでいらっしゃるから、盛装しておいでの時には、山や川がどっしりしてゆるがぬように落ちついた威厳があり、だからこそ、御母上様が長寿であられるのでありましょう。その上に何のつけ加えることがありましょうか。それ故に、お殿様の藩国に対する関係は安定しているのでありまして、同様に御母上様の、お殿様に対する関係も危なげがないのであります。なんとお殿様が御母上様の御長寿をお祝いなさる条件が備わっているというものであります」

頼淳の生母に対する孝心が、先生の言葉によって余すところなく伝えられています。ただ、中には多少反発する向きがないとはいえない文章です。それは、先生が書いたことが事実だとすれば、貧しい人たちからみると、「殿様とはいえ、ずいぶんぜいたくな暮らしをしているな」と思う人がまったくないとはいえないからです。それに四国全体があまり豊かではなく、常に農民一揆が起こるような地域でしたから、そのままそういう民〈たみ〉がこの文を読むと、ぼくが感じたようなことを痛切に受けとめる向きもあるかもしれません。そこで平洲先生の文章は、殿様(頼淳)の治政について次のような文章が続きます。

頼淳の治政

「お殿様が、聡明で誠実、学問を好まれる御様子は、ちょうど魯〈ろ〉(中国の周の時代の王朝。起源前11世紀~前3世紀)の第12代孝王〈こうおう〉が、日月山川のごとき明きらかな神をつつしみうやまい、尊敬の念をこめて長老につかえ、政治を行なって刑罰を執行する場合には、必ず先王の教えを問い国家の故事を尋ねて従い、聞いたことや尋ねたことは干犯〈かんぱん〉しなかった、と書き残されているとおりに、なさっていらっしゃいます。そのような風でしたから、お殿様の人徳の及ぶところ、遠近を問わず、みな感化され順応しておりまして、上は御家老から下は足軽まで、言行をつつしみ、戒めあって、他方では、ゆったり和〈やわ〉らいで、打ち解けあい、楽しみあっているのであります」

さらに先生の文章は続きます。

「おおむね一国の国勢が平和に向かってゆくとき、一国の君主として善政を敷いた殿様のあることはよく耳にするところであります。しかしながら、家臣が一致してむつまじく、人々の心が共に楽しむということにつきましては、私は、御尊家ほどにまとまっている大名家のあることを聞いたことがありません。それもひとえに、お殿様が天命をお受けしてそれに応える政治をしていらっしゃるからであり、他方、御母上様が天寿を得てそれを全うしようと努めていらっしゃるからであります。私がこのように考えて安心できるかというと、それには何か釈然としないものを感じます。思うにそれは、お殿様が藩民をいつくしむ政治をなさるにあたって、御自分の御母上様をうやまうように庶民の老人に及ぼしてゆかれるから、藩民に無言の教えとなって、言われなくとも敬老に努めさせることになり、結果的に人の道の根本が確立し、人々は自らの父母をはじめとして目上の人を大切にするようになったのでありましょう。

でありますから、かの頑迷極悪で牢獄〈ろうごく〉にはいってあたりまえと思われるような悪人でさえ、藩政府になついて善言するようになったというのも、藩の役人のむちが、かの劉寛〈りゅうかん〉(中国・後漢の地方長官)のごとく、罪の恥ずべきを示して苦痛を与えない蒲〈がま〉の穂のむちであったからであります。そのうちに、藩民それぞれの家族に孝子が出るようになり、孝行というよい行ないが尽きることなくどの親にも与えられ、記録表彰すべき者も出るようになりました。藩政府は、毎年、孝子の状況報告を受けるようになりましたから、かの蒲のむちさえ、なんと朽ちはててしまったというわけであります。

こうなると、藩政府は、あげて喜びをかくしきれず、ことほぎ合い、次のように言い交わしています、『どうか、われらの殿様が病気になぞかからないでいらっしゃられますように、と願うばかりです。お殿様はどうしてあんなに学問をなさり、政治に励まれるのでしょうか〔あれでは御病気になられます〕。人間、ゆくゆくは老いるだけでありましょうに。〔しかしそれにしても〕、私どもは何という幸せでありましょう、このお殿様の平和な御代に生まれ合わせました』

割り勘で祝杯をあげ、手に手をとって舞い歌い、こうして何年かが過ぎています。

そもそも、お殿様は富貴に身をおいていらっしゃっても、奢〈おご〉りたかぶらないで、費用を節約し、礼法を守って行ないをつつしみ、国家の人民を平和に維持しようとしていらっしゃいます。『孝経』にいう『諸侯の孝行』とはこういうことをいうのでありましょう。

まったく、お殿様が孝行をなさるということは、すばらしいことでありまして、その御母上様は70歳という長命であられます。『詩経』に『楽只〈らくし〉ノ君子ハ、遐〈な〉ンゾ眉寿〈びじゅ〉ナラザラン(心楽しきお方は、眉長き長寿者となられるはず)』と歌われるのは、このことをいうのでありましょう。それゆえに、私はお殿様のために御母上様の御長寿をおたたえ申し上げ、のみならず御母上様の御長寿の、わがこの藩国と共々に長く限りなくあられんことを心からお祈り申しあげます」

さすがに漢学の造詣〈ぞうけい〉の深い先生のお祝いのお言葉ですから、単なるお世辞とかおべんちゃらではありません。いろいろと考えさせられる意味を含んでいます。

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