平洲塾118「平洲先生が笛を献じた名君」
平洲先生が笛を献じた名君
徳川一族が治める西条藩
平洲先生が上杉治憲〈はるのり〉(鷹山)の賓師〈ひんし〉になったのは明和元(1764)年のことで、先生は37歳でした。治憲は14歳です。しかしその4年前の宝暦10(1760)年に、先生は伊予〈いよ〉(愛媛県)西条藩主松平頼淳〈まつだいらよりあつ〉の侍読〈じどく〉(=侍講〈じこう〉)になっています。松平頼淳が平洲先生を侍読に招いたのはその4年前(宝暦6年)に中国僧と対談する機会に通事(通訳)として招いたからです。平洲先生は当時、「中国語を日本語のように話したりきいたりする」といわれていました。頼淳はこのうわさをきいてすぐ先生に、「こういう催しをおこなうのでぜひ通事としてご同席願いたい」と丁重に申し入れました。平洲先生は快諾しました。そのときの先生の中国僧とのやりとりに頼淳はひどく感心しました。やがて宝暦10年になって、「わたくしの侍読としてお教えいただきたい」と改めて先生を正式に学問の師に招いたのです。当時西条藩の江戸屋敷は渋谷(東京都渋谷区)にありました。下屋敷です。上屋敷は青山にあったようです。
西条藩は3万石の小さな大名家です。1万石以上は大名の扱いを受けるわけですが、西条藩は3万石であるにもかかわらず城を持ちませんでした。陣屋です。これは明治維新まで続いたようです。全体に経営方法は勤倹節約を重んじていました。
頼淳は紀州(和歌山県)6代目の藩主宗直〈むねなお〉の次男です。宗直は2代目の西条藩主でした。初代は松平頼純〈よりずみ〉といって、紀州藩の初代藩主頼宣〈よりのぶ〉の次男でした。頼宣は徳川家康の10男です。宗直は西条藩に愛着があったのでしょう、自分の次男をあえて藩主に入れたのです。そしてこの頼淳も、やがては紀州家に戻って宗家の9代の藩主になります。このとき治貞〈はるさだ〉と名を変えています。平洲先生は、頼淳時代も、その頼淳が治貞となったのちも侍読として学問を教えています。
小さな大名家ですが、西条藩はそのように徳川家とのかかわりが深かったので、陣屋につとめる武士はもちろん、領民も誇りが高かったそうです。
「うちの殿様は徳川家のご一族だ」と誇り合っていたそうです。頼淳は実に20年にわたって西条藩の殿様をつとめました。前号に、三万石一揆があったと書きましたが、それ以外には農民一揆はほとんどなかったようです。一番多かったのは、同じ伊予の宇和島藩(伊達家)のようで、50件余り幕末まで一揆が起こったという記録があります。
大火の中で焼け残った笛
それと、西条藩松平家は「定府〈じょうふ〉」でした。定府というのは、常に江戸に在住するという義務を負います。そのかわり「参勤交代」の義務は免除されていました。しかし江戸生活の費用は物価高ですから、到底本国の比ではありません。そういう費用を捻出するのも本国です。心の優しい頼淳は、そういう事情を慮〈おもんばか〉って常に、「本国には苦労をかける」と考えていました。定府の大名はほかにもいます。頼淳たちは、そういう連中と常に連絡をとり合って、「困窮している藩の救済方法」や、「不在藩主としての身をさらに修養を高めること」に努力しました。平洲先生はそういう頼淳に、「家臣と領民の模範になるような人格養成」に力を貸していたのです。平洲先生に「舞阪〈まいさか〉の笛の記」という文があります。これは、江戸にいった平洲がはじめて尾張の故郷平島村に帰省するときに、舞阪の地で竹材をみつけ、平洲先生自身がこの竹でつくった笛のことです。平洲先生には笛を吹く技〈わざ〉が備わっていましたから、吹いてみるとなんともいえない音が出ました。その後江戸に戻った平洲先生は宝暦10(1760)年に、江戸で大火がありました。江戸の町をかなり焼き払った大火事でしたが、門人たちの努力によって先生のこの笛が不思議に焼け残りました。ちょうどこのころ、先生は松平頼淳から侍読を頼まれていたので、「この笛を、西条侯に献上しよう」と思い立ちました。そのことを、先生は次のように書いています。
「その後、私は西条侯の御愛顧〈おあいこ〉をお受けするようになった。お殿様は、また一方、音楽がお好きであった。そこで、私はこの舞阪の笛を献上して、思うことである、『林の中じゅうの竹を探して見つけたのはこの一本だけだった。江戸を焼き尽くした大火事が、今度はこの笛だけを焼き残した。この笛は何か不思議な運命をもっているような気がする。だから私の手元に置くのではなくお殿様の蔵に収め、天与〈てんよ〉の使命をもった祭器の中に加えていただいて、なんとか千年の後の代まで伝えられる物となってくれたらと思う次第である』と」(小野重伃先生の『嚶鳴館遺稿注釈 諸藩編』から引用させていただきました)
愛情のこもった笛なので、先生にすればさぞかし惜しかったでしょう。最後まで自分の手元に置きたかったのだと思います。しかし火事という事件にあって、しかも多くのものが焼けたにもかかわらず焼け残った笛には、何か人智を超えたものが存在すると感じたのに違いありません。笛は西条侯松平頼淳に献じられました。頼淳も大変喜びました。
(つづく)
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