平洲塾109「吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(3)」

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ページ番号1004592  更新日 2023年2月20日

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吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(3)

細井平洲先生の母親への孝行心は、平洲先生を病気にしてしまいましたが、それはおそらく先生が中江藤樹の例もしっていたからだ、と思います。中江藤樹は“近江聖人〈おうみせいじん〉"とよばれました。聖人というのは孔子のことです。ついでに書いておけば、聖人のつぎにすぐれた人物を“賢人〈けんじん〉"といいます。これは孟子〈もうし〉のことです。ですから「聖賢」といえば孔子と孟子のことをいうのであって、ほかの人は入りません。

ですから“近江聖人"というのは“近江(滋賀県)の孔子様"という意味です。中江藤樹は「日本で最初の陽明学者」といわれます。中国の学者王陽明〈おうようめい〉の学説を日本で唱えた、といわれてきました。最近では多くの研究者の研究によって、

  • 藤樹の学問は晩年になって神仏をも含んだ独特なものになり、とくにその宇宙論は必ずしも王陽明の論を伝えるものではない。
  • 宇宙論を基に考えると、藤樹教といってよいような宗教論にちかい。

というようなみかたをされています。ぼくにはむずかしいことはわかりません。ただ藤樹がそれまでのお城づとめ(伊予〈愛媛県大洲市〉)を突然やめて、脱藩という違法行動に出たのは近江でひとりぐらしをしているお母さんのためでした。

藤樹は加藤という小大名に仕えていました。加藤家ははじめは近江国内に領地をもっていましたが、その後、米子〈鳥取県〉・大洲と転封し、藤樹も養父になっていた祖父について移住したのです。藤樹の加藤家におけるしごとは、城の侍に学問(朱子学)を教えることでした。学問というより「藩民の模範となるような武士の心得」を教えることでした。しかしまだ戦国の気風が色濃くのこり、また藤樹が若いので武士たちはそんな教えに関心を示しません。そして若い藤樹をバカにします。それでも根気よく藤樹は教えつづけます。

藤樹が主にテキストにしたのは「孝経」です。タイトルどおり「孝」を教える本ですが、孝といえばふつうは“親孝行"の意味だと考えます。しかし藤樹は必ずしも対象を親にしぼりませんでした。もっと拡大して考えました。すなわち、

  • 親にはもちろん孝行する。
  • 親だけでなく親族にも孝行する。
  • 近隣の人たちにも孝行する。
  • 属する国(この場合は藩・大名家)にも孝行する。

という論です。ですから藤樹の考える「孝」とは、「誠心(まごころ)をつくすこと」とうけとめていいでしょう。孝は人間の基本であり原点なのです。しかしその出発点になるのが親孝行であることはまちがいありません。

藤樹には悩みがありました。それはかれが単身赴任で近江をはなれ、米子・大洲と転勤している時も、母親はひとりで近江の琵琶湖のほとりでさびしくくらしているのです。そして次第に老いていくのです。

藩士たちに孝の教えを説きながら、藤樹は自分のやっていることに次第に矛盾を感じました。(他人にエラそうなことを説きながら、自分が一番親不孝ではないのか?)。この疑問が日ごとに大きくなり、ついに藤樹は、「近江に帰ろう。母のそばに戻って親孝行しよう」と思い立つのです。上役に願い出ましたが許可してくれません。藩士教育に藤樹は欠くことのできない存在だったからです。とくに藩主が教育熱心でしたから、上役はぜったいにウンといいませんでした。

悩んだ藤樹はついに脱藩します。京都で追手を待ちましたが藩は追ってきませんでした。そこで藤樹は故郷(滋賀県高島市安曇川〈あどがわ〉)に帰り、母親のそばに着きました。

藤樹は有名な学者ですから、平洲先生も当然このエピソードをしっていたはずです。そして故郷に戻った藤樹が里人の要望にこたえて、塾をひらいたこともしっていました。さらに学びにくる人びとが、はじめはちかくの農民や漁民や馬方〈うまかた〉などの庶民であることもしっていました。おそらく平洲先生は、「親に孝行したいというきもちはおなじであっても、藤樹先生は生きているお母さんに会え、自分はまにあわなかったこと」という事実が、いくらくやんでもくやみきれない心の鬼となって、これでもかこれでもか、と平洲先生を責めたてたのにちがいありません。

ところが平洲先生のえらいところは、この状況を逆転させたことです。つまりマイナスをプラスにかえたことです。この逆転のプラス志向(前向きのやる気行動)は、そのまま吉田松陰の行動にもあらわれます。

この原動力はなんでしょう。ぼくは平洲先生も松陰も「人間の性善説」の信奉者だったからだ、と思います。

「人間の性はもともと善である。だからまごころをつくせば必ずわかりあえる」という考えです。人間信頼の基調音です。いまのような時代では、「バカなことをいうな。人間の性は悪だ。ダマシあいだ。だからワルイやつほど得をするのだ」という人が多いでしょう。しかしぼくは二宮金次郎がいったように、「それはまだこっちのまごころが足りないからだ」という言葉を信じています。そして金次郎もあきらかに『嚶鳴館遺草』の影響をうけた農村改革者だったと思っています。

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