平洲塾114「続・平洲先生の門人たち(1)」
続・平洲先生の門人たち(1)
西沢曠野〈にしざわこうや〉さんのこと
仕事が途切れたとき、あるいはスランプに陥ったときにぼくには一つの癖〈くせ〉があります。それはいろいろな「辞典」をぼんやり眺めることです。ぼんやり眺めるというのは、心をその辞典に書かれた字に熱中するのではなく、頭の中では別なことを考えているのです。新しい仕事がきたときにはどういうテーマを設定しようか、あるいは今ゆき詰まっているこのスランプをどうすれば解きほぐすことができるだろうか、具体的には書いている主人公の行動をどのように設定したらいいか、などを思いめぐらせているのです。ところが不思議なことに、ぼんやりみているはずの辞典の内容が、いつの間にか脳のひだに彫りつけられて、時間を経て突然はっと思い出すことがあるのです。ということは、脳の働きはぼくの神経系統の司令部のいうことどおりに動いているのではなく、独自の運動法則を持って活躍しているということになります。これは助かります。たまたま森銑三〈もり・せんぞう〉先生の『人物逸話辞典』を開いていたら、「西沢曠野〈にしざわこうや〉」という人物にぶつかりました。こう書いてあります。篤行家〈とっこうか〉。また名は周、字は子邦、曠野また夢沢と号し、自ら称して愚公といった。俗称は義右衛門、武蔵国足立郡与野〈よの〉の人、細井平洲に学んだ。文政4(1821)年9月25日没す、年79、とあります。ぼくが目をとめたのは「細井平洲に学んだ」ということです。へえ、平洲先生にはこういう門人もいたのか、と改めて思いました。この人の業績について次のような表現があります。
* * *
容貌〈ようぼう〉がなごやかで、物いいが穏やかであった。対していると、春風の中に坐しているような思いがした。親に仕えて至孝で、その歿後も、春に秋に事あるごとに悲泣することが、初喪の時の如くであった。その村に急のある時には、必ず救済に赴いた。平素古着や薬の類を蓄えて置いては、折に触れて困っている人々に与えた。かつて兄弟の相争って、年を経ても和解せぬ者があった。翁は二人を諭した上に、懐から二十両の金を出して贈った。兄弟はついに和した。余が紀先生(平洲)に従って、尾張に遊んだ時、大宮の宿では土地の有力者達が礼服で出迎えて、歓待してくれて、先生を敬うことが神の如くであったが、それは翁からの話があったからであった。翁は学問が深かったけれども、隠操を固持して、富貴・利達のことなどは、絶えて意に惜かず、その家は初めは大いに富んでいたのが、度重なる災害に、左前となっていた。けれども些かの憂色もなく、日々子弟と書を読み、業を講じ、暇には酒を飲み、詩を賦し、欣然として楽しみ、時時笑って、『陶淵明は何人か』といった。翁は志においても徳においても高かった。ああ、翁の人となりかくの如し、この人を君子と呼ばずして、何人を君子と称しようか。翁の歿後には、村の人々は、毎月の忌日ごとにその家に集まって、『孝経』一巻ずつを誦えて、念仏に代えた。遺命を尊んで、そのことを続けたのである。
これは「樺島石梁〈かばしま・せきりょう〉」という人の書いた西沢曠野を偲〈しの〉ぶ文章の一節である。後半の「翁」というのは西沢曠野のことだ。
誰が読んでも、「これは平洲先生を偲ぶ文章ではないのか」と思うに違いない。ぼくもはじめすっと読んでいたときは、「平洲先生のことを書いているのだな」と思った。しかしそうではなく、樺島石梁が平洲先生の供をして、尾張(愛知県)にいったときに、土地の人々が平洲先生を非常に敬っていましたが、これは、「西沢曠野がすでに土地の人々に平洲先生のことを細かく話してあったためだ」ということなのだ。
歴史の芋づる式勉強法
“芋づる"という言葉があります。お芋を土の中から取り出すとき、つるについた芋が次々とあらわれます。決して芋は一つだけでこの世に出現はしません。一本のつるに、いくつもの芋がついています。これを人間のおこないや慣習になぞらえて“芋づる式"という言葉もあります。ぼくのような歴史ものを書く人間はよくこの“芋づる式"を活用します。つまり一つの事柄から人物や事実を芋のように一本のつるで引き出す方法です。今回もそのことを経験しました。ぼくは、西沢曠野という人をよく知りません。また平洲先生の門人であったこともこの一文によって知りました。しかもそれは、「西沢曠野さんのことを調べよう」と思ってはじめた作業ではありません。たまたまスランプに陥っていて、そのスランプ解消のために森銑三先生の『人物逸話辞典』をぱらぱらめくっていたら、いきなり、「細井平洲に学んだ」という文字が飛び込んできたので、慌ててこの人物のことに関心を持ったのです。これがお芋の最初です。そこで次に、「西沢曠野さんのことをもっと知りたい」と思いました。
そして、(このことは、おそらく森銑三先生のほかの著作の中に出てくるに違いない)と思いました。森銑三先生は、ぼくにとっては、「知識の鉱脈」のような存在です。書かれたものはかなり多岐にわたり、いろいろな人物のいろいろな業績に触れています。人物の選び方も特に絞るわけではなくあの人あの方面、この方面のあらゆる人物に及んでいます。中央公論社から「森銑三著作集」というのが出ていますが、ぼくは早い時期かなり熱意を持って入手しました。全12巻、別巻1巻という大部の著作集が発行されています。1巻から9巻までは「人物編」です。前冊そろえて、書棚で大事に保存しています。
(つづく)
より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。
このページに関するお問い合わせ
教育委員会 平洲記念館
〒476-0003 愛知県東海市荒尾町蜂ケ尻67番地
電話番号:052-604-4141
ファクス番号:052-604-4141
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。