平洲塾108「吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(2)」
吉田松陰と『嚶鳴館遺草』(2)
吉田松陰は、孟子の信奉者でした。松陰自身に著書はありません。ただ、牢獄にいたころから同じ入牢者たちに対し、孟子の講義を行いました。松陰が孟子を選んだのはやはり、「民を貴しとすべし」という考えに共感したからだと思います。普通の学者なら必ず孔子を大切にし、その著である「論語」をテキストにしていろいろ自分の解釈を語るのですが、松陰はそうはしませんでした。そして、「孔子だけでなく、孟子も含めて、もし日本に攻めてくるようなことがあったら、武器を取って勇敢にこれらの聖人(孔子)や賢人(孟子)と戦え」と、松下村塾の門人たちに告げています。これは松陰の信念である、「たとえ聖賢といえども、その教えに盲従してはならない」という考えから発しています。松陰は松下村塾の塾生たちに対し、「自主的な考えを尊重しなさい」と口を酸っぱくして告げていました。そのことは聖人や賢人にも及んで、「たとえ聖賢の言ったことでも盲従するな」ということなのです。松陰は、後の福沢諭吉にも通じますが、「個人の自主独立」を大切にしました。ですから松陰は塾生に対しても決して、「ぼくを師と呼んではならない。ぼくは君たちと共に学ぶ学友である」と主張していました。松陰がこの「遺草」を「経済の根本に触れている」ということは、「経済」という言葉の意味を、原初に立ち返って解釈していたからだと思います。経済というのは、「経世済民」の略です。つまり二つの言葉を省略した言葉なのです。経世というのは、「乱れた世の中を正しく整える」という意味です。済民というのは、「苦しんでいる民をすくう」という意味です。そうなると普通に言わる経済の別名である゛ソロバン勘定゛とは全く違った意味になります。意味が違うというよりも、経済という言葉には、「その背後に政治的な理念が含まれている」ということです。乱れた世の中を正しく整えるということは、何もソロバン勘定だけではありません。もっと根本的なことがあります。つまり、「この国(日本国)に生きる人々が、安定し毎日安心できる暮らしが送れるような状況」をもたらすことが真の政治の目的だ、ということでしょう。吉田松陰はそれを願いました。かれが松下村塾を開いたときに、「松下村塾から長州藩を改革し、長州藩の改革によって日本を変革しよう」と叫んだのは、だれのための改革かといえばそれは、「当然、この国に住む人々のためだ」と応えたことでしょう。松陰には士農工商などの身分観念は全くありませんでした。人間は全て平等だと考えていました。そのテキストを「遺草」の中に発見したのです。ということは「遺草」の土台が、もともと、「人間平等主義」が据えられていたからです。それにぼくが最近感じたことですが、現在今よくいわれる゛グローカリズム(グローバルとローカルの合成語)゛という考え方は、平洲先生の思想の底にも早くからあったような気がしています。
平洲先生は、若い時真先に長崎に行きました。そして長崎港に海のかなたからもたらされる中国やヨーロッパの文明を受け止めました。特に平洲先生は中国に関心を持ち、中国人についてその言語をマスターしました。ですから、日本に来た中国人との接触の時に平洲先生はよく通訳として呼ばれました。ということは、平洲先生の中国語は相当なものであり、本物であったということです。これはグローカリズムでいわれる、「日本人は誰でも、どこかの地方人であり、日本国民であり、国際人である。つまり三つの人格を持っている」という発想に通じます。グローカリズムは、「だから、自分の住んでいる地域のことだけではなく、日本国全体の課題や、国際問題にも関心を持たなければいけない」ということなのですが、平洲先生は若い時からこの゛グローカリズム゛を身に着けていたとおもいます。ただ悲しいことに、長崎に居るときにお母さんの病気が重くなり、慌てて故郷(知多半島の平島)に戻った時は、お母さんはすでに亡くなっていました。平洲先生は悲しみのあまり病気になります。しかしその病気の原因は、「病気になったお母さんを看病することができなかった。その最期にも立ち会えなかった」という深い反省に基づいていたことだと思います。平洲先生にすれば、「グローカリズムの、グローバルにばかり目を向けていたために大事なお母さんの死に目にも会えなかった。自分は親不孝者だ」という反省が深かったことでしょう。いくら自分を責めても責めきれないような悔いの念が次から次へと平洲先生を襲い、ついに病気になってしまったのです。
今「農協」は、まもなく成立するであろう法律によって大改革をせめられています。農協というのは、「農業協同組合法」によって成立している団体です。協同組合法というのは「お金によって結びついた組織」ではありません。「人と人との結びつきのよって成立した組織」です。人と人との結びつきということは当然、「人間の心と心の結びつき」が基本です。どなたが発想されたのかわかりませんが、ぼくをその「農協全中の研修顧問」のような役割を依頼されたのは、やはりぼくが数十年、この、「心と心の結びつき」を、一貫したテーマとして追及しているためだろうと思います。農協全中の改革を前に、関係者に対する研修の機会が多くなりました。農協は今までにも「改革」ということを口にしてきましたが、それはぼく自身も含めて「目前に迫った火ダネ」という認識はそれほど強くはありませんでした。しかし、今度はそうはいきません。そしてその改革も、場合によっては津波のような大きく強い襲来になりかねません。したがって、頼まれればぼくも時にフラフラしながらも、会場に出掛けて行きました。そして話すのは必ず細井平洲先生の「遺草」に盛られた趣旨です。それは吉田松陰が、「『遺草』に盛られているのは、単に農業改革の方法だけではない。経済の根本語っている」という観点から捉えたものです。いつも考えることですが、改革というのは三つの壁への挑戦です。三つの壁というのは、゛モノの壁(物理的な壁)・仕組みの壁(制度の壁)・心の壁(意識の壁)゛への挑戦です。しかしこの三つの壁の中で最も壊しにくいのが最後の゛心の壁゛です。いうところの、「意識改革」です。逆にいえば、この意識改革さえ成功すれば、他の物理的な壁や制度の壁も容易に崩れるでしょう。それは世界史的に見れば例のベルリンにおける゛東西を分けたコンクリートの壁゛が、崩れ去った事実を見ても理解出ます。あの壁を東西両側に住んだ人たちが意識改革によって壊し、その破壊によって二つに分かれた国が一つにまとまったことは、世界中の人が知っています。
そういう状況を頭の中に置きながら、ぼくが平洲先生の「遺草」の中から、特に取り出して強調するのが冒頭の「巻之一 野芹 上中下」に書かれていることです。この中で平洲先生は、「改革の時というのは、通常の時ではない、非常の時である」とおっしゃいました。そして、「非常の時には、非常の手段が必要です」と告げます。このことは、改革に携わる人たちがよく最初持つ意識の中に、「そうはいっても、現状をあまり変えたくない。自分も今のままでありたい」という欲望がちらちらするということへの指摘でしょう。これは、今ぼくが話題にしている「農協全中の改革」についても同じです。それは地方の大きな農業経営者によっては、「改革が必要なことはよくわかる。しかしおれの時代には勘弁してもらいたい」ということなのです。別な角度から言えば、「御先祖様から引き継いできた土地を、失ったり削られたりするようなことは御先祖様の申し訳ないから是非避けたい」という考えです。
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