平洲塾100「平洲先生の教えで農業改革を考える(上)」

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ページ番号1004602  更新日 2023年2月20日

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平洲先生の教えで農業改革を考える(上)

農業新聞の反応

前回までに、ある農業新聞から「これからの日本の農業のあり方について」というインタビューを受けたことを書きました。その記事が載ったのでしょう。たちまち反応がありました。まず北海道農業協同組合中央会をはじめとして、青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県などの、いわゆる東北六県の協同組合中央会から、「先日の新聞のコメントの趣旨に沿って、講演を頼みたい」ということです。ぼくは、(これは、いままでのような通りすがりではすまないなぁ)と思いました。つまり、本腰を入れてぼくもこの問題に取り組まなければならない立場に立たされたということです。それは、前に書きましたがぼくが日本の農業協同組合全国中央会の研修顧問をしているためでしょう。しかしぼく自身は農業の現場にいるわけではなく、農民の苦労も自分のこととして受けとめるような立場にありません。そのため、平洲先生の教えを軸にしつつも、話すことはやはり、「通りすがりの人間」のような、水彩画のような淡いスケッチ的なものであり、同時にそれだけに責任を深くまた重く担うようなきもちにまで至っていなかったことは事実です。いわゆる、「素人ゆえの限界」を、一種の免税点(課税が免除される限界点)のようなものとしてぼく自身意識の中になかったとはいえません。しかし、こんどは違いました。本気でこの問題をぼくも考えなければならない、という覚悟を決めたのです。そして、その"本気で考える"のよりどころは何かといえば、やはり平洲先生です。ここで改めて、平洲先生が、「この問題(農業問題)に取り組んだら、どのような改革案をお立てになるだろうか」という命題を、ぼく自身に課しました。以下は、その骨子です。

組合の主権者は組合員

  • 平洲先生は、「改革の対象」をどこにおかれるだろうかということがまず問題になります。

つまり、「だれのために改革をおこなうのか」という、その"だれの"のことです。いってみれば、改革の対象でありながらもうひとつのいい方をすれば「改革の主権者」といっていいでしょう。つまり、日本国家の主権者が国民であり、地方自治体の主権者が地方住民であるのとおなじです。別な言葉でいえば、日本国家の主人は国民であり、地方自治体の主人は地方住民だということです。したがって、主権者のための仕事をする政府の役人は"パブリック・サーバント(公僕)"と呼ばれます。これは地方自治体の職員についてもおなじです。したがって、ここで古めかしいいい方をすれば、「主人と召使」の関係が成立します。召使は主人のために、その能力をフルに発揮して、尽くさねばなりません。国家公務員も地方公務員も、採用のときに必ず「誓いの言葉」を述べます。

70年近く前のことですから、その誓いの言葉がそのままいま使われているかどうかは確認しておりませんが、ぼくが最初地方公務員(東京都庁)に入るときに、この誓いの言葉を述べました。

「わたくしは、日本国憲法を守り、全体の奉仕者として、職務に専念することを誓います」と告げたのを、いまだに憶えています。つまり、国家公務員にせよ地方公務員にせよ、定年まで一所懸命仕事をするときの基準は、この"誓いの言葉"にあると思います。この誓いの言葉は、まず自分が主人とする国民や地方住民に向けられたものであり、もうひとつは、ぼく自身、「自分への誓い」だと思っています。ですから、この誓いの言葉に反するようなことをしたときは、国民や住民を裏切っただけでなく、自分自身をも裏切る結果になるのです。それだけに、この誓いの言葉は、定年まで公務員生活をつづける者の憲法といっていいでしょう。

では、農業協同組合の主権者つまり主人はいったいだれになるでしょうか。平洲先生におききすれば、「そんなことは決まっているよ。でも、おまえさんならどう考えるかね?」と、多少アイロニー的傾向のある平洲先生は逆にたずね返すでしょう。ぼくはためらうことなく、「それは組合員です」と答えます。平洲先生は大きくうなずかれます。「そのとおりだよ。そこを基本にして改革案を考えなさい」とおっしゃるはずです。ですからいまの日本の農業協同組合が、だれのために改革をおこなうのか、というその"だれか"は、即組合員だといえます。もともと協同組合というのは、前に書いたこともありますが、「お金で結びついた組織」ではなく、「人と人によってつくられた組織」ということです。人と人ということは、別なことばでいえば、「人間の心と心の結びつき」といっていいでしょう。ぼくはここまで考えたことを、心の中の平洲先生に報告しました。そして、「いかがでしょうか」とおたずねしました。平洲先生は、「それで結構だ。組合員が主人であり、組合の職員が召使だという考え方は正しいよ」とおっしゃってくださいました。そこで今度は改革の内容になります。改革にはぼくはふたつあると思っています。それは、

  • A 永遠につづけなければいけない改革
  • B 短期的に、現実に即応するような改革

のふたつです。もちろん、Bの改革はAの改革に寄与するものでなければなりません。一過性であり、短期的であると考えられがちな「現実対応の改革」も、「将来は、必ず永久改革の中に組みこまれる、つまり、発展的解消を遂げるような内容でなければならない」ということは、長年改革ということについて考え、また実行もしてきたぼくにすれば、ごく当たり前な議論なのです。平洲先生もおそらく賛成してくださると思います。

芭蕉の「不易・流行」の論―未来を見据える現実改革

このことは、ぼくが別な本で学んだ俳聖松尾芭蕉の「不易と流行」の理論に結びつきます。芭蕉のいう不易というのは、「どんなことがあっても絶対に変えてはならないもの、また変わらないもの」のことをいいます。流行というのは「現実に対応してすぐ役立つようなこと」のことです。芭蕉は門人たちに対し「俳句をつくるのもこの不易と流行がある。しかしその根はおなじものであって、決して別なものではない。というのは、いま流行という観点に立って、現実に即応した俳句をつくったとしても、その俳句は数年経てばまぎれもなく不易の中に解けこんでいくようなものでなければならない」と教えました。難しいことです。というのは、この不易と流行はいまの世の中ではバラバラに存在しているからです。たとえば、ぼくが深くかかわっている生業の出版のことについて考えてみます。出版界はいま大変な状況にあります。危機つづきです。したがって出版の経営者の多くは、「すぐ利益の上がるような本を出そう」と考えます。つまり流行です。しかし本来出版の仕事というのは、やはり活字による文化の仕事を担当しているのですから、「出さなければいけない本・出しておいたほうがいい本」も考えるべきです。しかしその「出さなければいけない本・出しておいたほうがいい本」もコストがかかります。そのコストをどうするか、といえば「すぐ売れる本」を出すこと以外ありません。ほかに事業をやっていれば別ですが、活字だけで経営している場合にはやむを得ないことだと思います。ですから、「いますぐには売れないが、出版文化の一翼を担うものとして出しておかなければいけない本や出しておいたほうがいい本を以後出すためにも、出すための資金を得るためにも、すぐ売れる本を出すこともやむを得ない」ということになるのです。というよりも、現状は「いますぐ売れる本」に大きく傾いているといっていいでしょう。肝心な「文化のために出さなければいけない本や出しておいたほうがいい本」は、どちらかといえば棚上げにされがちです。しかし、これも芭蕉の「不易と流行」の原理を実行した一現象であって、すべてがそうではないと思っています。

農業改革もおなじです。つまり、

  • いますぐおこなわなければいけない改革
  • いますぐ結果が出るわけではないが、組合として永遠につづけなければいけない改革

のふたつを考えるべきでしょう。
(つづく)

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