平洲塾90「平洲先生のリーダーシップ(2)」

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ページ番号1004612  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のリーダーシップ(2)

ぼくは物を書く以外によく地方に講演にいきます。講演先から注文されるテーマに中に、必ず「上杉鷹山」が入ります。ぼくが上杉鷹山を小説にしたのはもう四十年近く前のことですが、以前としてニーズ(需要)が絶えません。そして、講演が終わった後の質問には必ず、「上杉鷹山が藩主になったのは十七歳だとききましたが、よくそんな少年であんな改革がおこなえましたね」というのがあります。はじめて鷹山の小説を書いたころのぼくは、「鷹山の言行はすべて細井平洲先生の主導によっている」と考えていましたから、そういう質問を受けてもスラスラと自信をもって答えました。しかし、このごろではぼく自身も少し引っかかるような面が出てきました。それは、小説に書いたころのぼくは上杉鷹山を信じきっていましたし、またその主導する平洲先生の主導力も疑いを持ちませんでした。ですから、いくら読者が疑問を持ってもぼく自身は、「当時の鷹山は、たとえ十七歳でもそういう主導力があったのだ。改革も可能だったのだ」と信じて疑わなかったのです。しかしこれはやはりすこし変だな、とこのごろ思うようになりました。それはいかに鷹山がすぐれていても、質問者がいうように「十七歳で、果たしてあんな業績が可能なのだろうか」というのはもっともな疑いなのです。まして、米沢藩となんのゆかりもない鷹山は九州の高鍋〈たかなべ〉藩秋月家から養子にいった人物です。つまり土地にも米沢城に務める武士たちにも、なんのゆかりもありません。まったく単身落下傘降下したようなものなのです。こういう悪条件・悪状況の中で、いかに鷹山がすぐれた人物でも十七歳の少年で、ああいうことがテキパキおこなわれるということは相当不思議な出来事なのです。

(いわれてみれば、そのとおりだな)と、このごろのぼくは思うようになりました。そして、こういうことを考えはじめました。それは、

  • 上杉鷹山は、たしかにすぐれてはいたが、十七歳ではあれだけの業績をおこなえるはずがない。
  • 鷹山の改革は、かれひとりのすぐれた能力ではなく、米沢城の中にすでに“改革グループ"といっていいようなパワーが存在したのではないか。
  • 鷹山は、すぐれたトップリーダー(藩主)として、そういう潜在した改革能力を掘り起こしたのではないか。

ということです。つまり、

  • 鷹山の改革は、決して鷹山ひとりでおこなったのではない。
  • かれに協力するグループがすでに米沢城内に存在した。
  • その改革グループは、当時必ずしも城内で公認されたものではなかった。むしろ排斥されていた。
  • 排斥されたグループは、まとめて江戸にトバされていた。
  • 鷹山はまず、その厄介者(トラブルメーカー)として、江戸の藩邸にくすぶっていた連中に光を当てた。
  • グループは、鷹山によって活躍する場を得たので、よろこび勇んで鷹山の改革精神に協力した。

というようなことです。しかしもうひとつ疑問が残ります。それは、「それにしても、十七歳の鷹山がなぜそんなことをなしえたのだろうか?」ということです。このことはためらいなくぼくは自分で自分の疑問を払拭しました。それは、「鷹山にそういう主導力(リーダーシップ)を与えたのは、平洲先生だったのだ」ということです。江戸時代の大名には、戦国時代の参謀や軍師といわれるようなブレーンがいました。主として学者です。戦国時代の参謀や軍師的な存在には、多くお寺のお坊さんがこの任に当たりました。参謀や軍師は武士ですが、知的ブレーンはすべて禅宗のお坊さんが務めました。これが徳川時代に入ってから、すべて学者に変わります。戦国時代と江戸時代を区分するのは、「将軍をはじめ大名のブレーンがお坊さんから学者に変わった」ということがいえるでしょう。そして学者が提供するチエの出展はすべて「儒教」です。それも朱子学が多かったのです。ですから江戸時代の学者が将軍や大名に教えたのは古代中国の孔子や孟子が唱えた「王道政治」でした。王道政治というのは「仁による徳望のある政治」のことです。テキストがあります。主として用いられたのは『貞観政要〈じょうがんせいよう〉』という本です。古代中国の唐〈とう〉という国の二代目の皇帝だった太宗〈たいそう〉という人物が、侍臣〈じしん〉と交わした対話をメモったものです。大きなテーマがふたつありました。ひとつは「君主のあり方」です。もうひとつは、「民〈たみ〉から慕われる君主になるには、侍臣の耳に痛い諫言〈ざんげん〉をきちんときかなければならない」ということです。民に対するあり方としては、「民を水と考え、自分を舟と考えるべきだ」と説かれています。国民は水のようなもので、君主がよい政治をおこなっているときは静かに支えてくれます。君主も安心して舟を操れます。しかし一旦民を苦しめるような悪政をおこなえば、民は怒ります。つまり水は怒って波を立てます。場合によっては舟をひっくり返してしまいます。

平洲先生にもこういう認識がありました。ですから鷹山に対しては常に、「たとえ年齢は若くても、民の親になりなさい。民の父母の立場に立って、民の悲しみや苦しみを自分のこととして受けとめなさい」と教えました。そしていよいよ米沢城におもむくときには、「改革をおこなう資源は、人と土以外はありません。そして、改革には勇気だけが必要なのです」といって、「有名な『勇なるかな、勇なるかな』」という励ましの言葉を添えたのです。ふつうブレーンである学者が自分に学ぶ将軍や藩主に与えるのは、「行動を起こす前の、方針や理念をどう構成するか」ということが主な要素です。ですから、それ以上の力は貸しませんし、また「ブレーンの限界」というものを共通して設定していました。つまりヒントや考える力は与えるが、それをどう行動するかは自分でお決めなさい、ということです。

しかし、平洲先生の場合は違ったと思います。もっと一歩前に出て、「わたくし(平洲先生)がお示した知力を、どうすれば実行できるか」ということにも、かなり踏みこんで鷹山を指導していたと思います。いってみれば、平洲先生は、「理念や方針を、どのように城の侍に理解させ、納得させ、実行させるか」ということを前提とした、つまりトップリーダーとしてのリーダーシップの取り方まで、踏みこんで鷹山に示していたのだと思います。それはどんなリーダーシップだったのか、ということをまとめてここに書くことはできません。こと細かく民情に通じていた平洲先生のことです。おそらくケース・スタディー(事例研究)的に、そのときそのときに示した事例に応じて、「このことは、こういう方法で藩士たちにお示しなさい」と細かい指示をお与えになったでしょう。
(つづく)

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