平洲塾94「平洲先生と高山彦九郎のこと(4)」

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ページ番号1004608  更新日 2023年2月20日

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平洲先生と高山彦九郎のこと(4)

国内の美談を探し歩く

たとえば、平洲先生があるとき訪ねてきた彦九郎に、「貴殿が歩かれて接した国内の孝子や節婦の例があったら教えて欲しい」と頼んでいます。彦九郎もこういう面には非常に関心がありましたから、自分の経験から知り合った孝子や節婦の話を、例をあげて平洲先生に伝えました。平洲先生はこれを自分が導いていた米沢藩主上杉鷹山に伝えます。鷹山は感動します。そして、「米沢藩内でも、こういう孝子節婦を大いに表彰しましょう」と、平洲先生に感謝しました。平洲先生にすれば、「これはもともとは高山さんの話をきいてお伝えしただけなのに」と、かえって恐縮します。

江戸期の中ごろ、学者の教える「尊王論」が事件を引き起こしました。竹内式部〈たけのうち・しきぶ〉という学者が、主に京都朝廷の公家たちに対し自論の「尊王論」を大いにぶちまくったのです。影響を受けた公家もたくさんおりました。竹内式部の説をそのまま発展させれば当然、「王政復古」になります。つまり、「天皇の親政政治を再びよみがえらせる」ということです。ということはそのためには、「幕府を倒す」という討幕論につながっていきます。竹内式部は幕府に捕らえられて罰せられました。そしてその流れを引く藤井右門〈ふじい・うもん〉あるいは山県大貮〈やまがた・だいに〉などが、やはりおなじような事件を引き起こします。したがって、尊王論を唱える学者は当時"危険な存在"として、幕府が大いに睨んでいました。

前に書いた高山彦九郎の父正教は、どうもこれらの事件とかかわりを持ったようです。直接あるいは間接にかわかりませんが、「これらの学者事件は、上野国〈こうずけのくに〉から火がつけられた」という説があります。上野国で火をつけたのはどうも高山家ではないのか、ということのようです。したがって彦九郎の父正教が死んだのは、この事件に関連した横死ではないか、と噂されました。

息子の彦九郎はこれを信じました。したがって、「父正教が横死したのは、だれかに殺されたのだ」と思いました。そして、「殺した相手は、必ず父たちの学問を嫌った連中にちがいない」と推測します。あるいはそうだったのかもしれません。父の正教は、高山家が篤い信仰心を持つ大山(神奈川県)にお参りする途中で生命を失っています。ですから彦九郎が平洲先生を訪ねて、「父の仇敵を討ちたい」ということは、父を殺した相手に報いるということですから、これは単なる殺人の下手人〈げしゅにん〉をさしているわけではありません。場合によっては、「徳川幕府を敵にまわす」という大変なことにもなりかねません。おそらく熱血漢の彦九郎のことですから、「これは単に個人的な仇討ちではなく、政治的思想を貫くためでもあります」と、滔々〈とうとう〉と熱弁を振るったのに違いありません。平洲先生が諌〈いさ〉めたのは、その彦九郎の熱い血のたぎる行動に対してであったでしょう。

ぼくの貧しい印象ですが、平洲先生は全体に、「政治とは一歩距離をおいている」という気がします。

「そんなことはない。上杉鷹山をはじめ各大名家の改革に参画しているではないか」という反論が当然あると思います。しかし平洲先生が行政に関与したのはすべて、「民のためによい政治をおこなうにはどうしたらよいか」ということであって、直接尊王論だの討幕論だのに触れたことはありません。
(つづく)

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