平洲塾93「平洲先生と高山彦九郎のこと(3)」

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ページ番号1004609  更新日 2023年2月20日

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平洲先生と高山彦九郎のこと(3)

彦九郎の柔軟さ

佐藤一斎〈さとう・いっさい〉先生は、小さいときからの学友である岩村藩主松平家出身の林述斎〈はやし・じゅっさい〉(大学頭〈だいがくのかみ〉)が主宰する昌平坂学問所〈しょうへいざかがくもんじょ〉の教授を務めます。昌平坂学問所は、当時幕府の直轄大学ですから、いまでいえば東京大学のようなものでしょう。そういう国立大学の教授でありながら、一斎先生は陽明学も教えていたのです。大変な勇気だといわざるを得ません。しかし逆に考えれば、あるいはそういう学問の普及を認めるくらい、当時の社会に寛容さがあったのだと思います。が、彦九郎が交流した柴野栗山〈しばの・りつざん〉・尾藤二洲〈びとう・じしゅう〉などは許容しません。かれらは、「朱子学以外、日本では教えてはならない」という強硬な態度をとります。これが寛政年間に起こった"異学の禁"です。柴野・尾藤ともに、当時としては高名な学者ですが、やはり国立大学で教鞭をとる以上、これに反する学問の存在を認めるわけにはいかなかったのです。陽明学については、「場合によっては、反幕の行動を起こしかねない」と危険視する世論もありました。やがて大塩平八郎〈おおしお・へいはちろう〉の乱が起こったときに、これらの学者たちは揃って、「それみたことか」と、いっせいに自分たちの先見力を誇りました。学者だけではありません。大名の中にも、「陽明学は危険だ」と考える人物もたくさんいました。

日本で"陽明学の祖"と呼ばれるのは近江(滋賀県)の琵琶湖畔で私塾を開いていた中江藤樹〈なかえ・とうじゅ〉です。その門人の熊沢蕃山〈くまざわ・ばんざん〉です。高山彦九郎はどうも朱子学よりも陽明学に魅かれていたらしく、このふたりの学者の史跡を丹念に訪ねて歩いています。

しかし、その生涯をみているとコチコチの陽明学者でもないようです。朱子学の意図も十分に身につけています。
(つづく)

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