平洲塾92「平洲先生と高山彦九郎のこと(2)」

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ページ番号1004610  更新日 2023年2月20日

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平洲先生と高山彦九郎のこと(2)

高山彦九郎は実学者

平洲先生と深い交流のあった尊王精神の行動者高山彦九郎は熱血漢です。行動の人です。ぼくは子どものころこの人物の存在を知りましたが、いまも京都の三条大橋に残るかれの銅像は、そのころあばら家に等しかった皇居をみて、「臣下の身でありながら徳川氏は、江戸に大きな城を建てて安住しているにもかかわらず、その主である天皇がこのような粗末な家にお住まいとは、なんとも嘆かわしい」と、涙を振るったと言われています。その印象が強かったために、ぼく自身高山彦九郎という人物は、行動者であって学者ではないと思ってきました。ところが最近資料を読み直してみて、それが間違いだったことを知りました。高山彦九郎は学者だったのです。しかもかれ自身、「わたしは実学者だ」と述べています。実学者であるというのは平洲先生とおなじです。ふたりの関係について平洲先生の認識によれば、「わたしは人に実学を教えるが、高山彦九郎殿は実学を実践しておられる」といわれています。そして会うたびに平洲先生は彦九郎に、「この前お会いしたときからのちの、貴殿の実学を実践した例をお教えください」と謙虚に依頼されています。したがって平洲先生は彦九郎を弟子とは思っていません。むしろ、「ともに学び会う学友」と考えておられたふしがあります。資料によると高山彦九郎が交流した学者は次のとおりです。

細井平洲・頼春水〈らい・しゅんすい〉・頼杏坪〈らい・ひょうへい〉(ともに山陽の父と叔父)・皆川洪園〈みながわ・きえん〉・藪孤山〈やぶ・こざん〉・柴野栗山〈しばの・りつざん〉・尾藤二洲〈びとう・じしゅう〉・岡田寒泉〈おかだ・かんせん〉・中井竹山〈なかい・ちくざん〉・中井履軒〈なかい・りけん〉(竹山の弟)・菅茶山〈かん・ちゃざん〉・股野玉川〈またの・ぎょくせん〉・股野資原〈またの・しげん〉・河野子龍〈こうの・しりゅう〉・赤松滄洲〈あかまつ・そうしゅう〉・谷伴兄〈たに・ともえ〉・服部栗齋〈はっとり・りっさい〉・西山拙齋〈にしやま・せっさい〉・高本紫溟〈たかもと・しめい〉・赤崎楨幹・伊南左膳などです。この中で、柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉の三人は、幕府の大学である昌平坂学問所の教授です。また中井竹山と履軒兄弟は、大坂に、「商人の・商人による・商人のための学校」をつくったことで有名です。しかし、だからといって武士の子弟を排除したわけではありません。あくまでも商人の水準を高めるために設けた学校ですが、武士の子弟が学ぶことは決して拒みませんでした。

そして、彦九郎が、「自分のもっとも尊敬し、親しく交わった学者」といって、真っ先にその名を上げたのが平洲先生です。前回でも書いたように、彦九郎は平洲先生にゆきずりの人として接したわけではなく、なにかあると必ず先生を訪ねて教えを請うています。

血気をいましめる

彦九郎がいちばん最初に平洲先生を訪ねて教えを求めたのは、24歳のときだといわれます。このときの目的がなんと、「父の仇敵を討ちたい」ということでした。平洲先生はおそらく呆れたと思います。が、「父の仇敵を討つなどということは穏やかではない。かりそめにも人の生命を損なうことだから、そこは考え直すように」と、諄々〈じゅんじゅん〉と説いてきかせました。彦九郎はじっと考えこみましたが、やがて顔を上げて、「先生のお教え、よくわかりました。仇討ちは中止します。どうか、門下にお加えください」といって、弟子入りを願ったそうです。

しかし、このときの彦九郎が「父の仇敵を討ちたい」というのは、単なる怨恨〈えんこん〉事件ではありませんでした。背景にはもっと大きな政治的意味がありました。それは彦九郎が終生、「尊王討幕の志」をもって生き抜いたことと深く関係があります。

彦九郎が生まれたのは上野国(群馬県)新田郡細谷村〈こうずけのくに・にったぐん・ほそやむら〉というところです。地域的にも、また生家の伝統にも高山家には固有の考えがありました。それは、「南朝の忠臣新田義貞〈にった・よしさだ〉を敬愛する」というものです。新田義貞はいうまでもなく、後醍醐〈ごだいご〉天皇の信頼の厚かった南朝の忠臣です。川を隔てた対岸には、後醍醐天皇に反抗し、北朝を立てた足利尊氏〈あしかが・たかうじ〉の祖先の家が代々つづいています。しかし新田家も足利家も元は源氏の出身です。途中から分かれて、それがまた南朝・北朝に分かれるという因縁がありました。

高山家は代々その誇りを持って生きてきました。そして、彦九郎の父正教とその父(彦九郎の祖父)貞正は、熱烈な尊王論者でした。さらに、父の弟で他家に養子にいった剣持長蔵もおなじです。こういう雰囲気に育ったので、自然彦九郎も尊王の精神が血となって幼いときから身体の中を流れていました。

幕府はこういう傾向を嫌います。とくに、「妄説を唱えては、愚かな民衆をたぶらかす者」として、学者を嫌いました。しかし学問の自由は江戸時代にもあります。幕府は「朱子学」で統制はしていましたが、やはりこれに反する王陽明の「陽明学」もひそかにおこなわれていたのです。現に、東海市に深いかかわりを持つ"嚶鳴〈おうめい〉フォーラム"にもよく登場する、岐阜県恵那市岩村の出身である佐藤一斎〈さとう・いっさい〉先生は、「陽朱陰王」といわれました。つまり表向きは朱子学を教えているが、陰では陽明学も教えているということです。
(つづく)

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