平洲塾89「平洲先生のリーダーシップ(1)」

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ページ番号1004613  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のリーダーシップ(1)

先日、九州の国立博物館から原稿の依頼がありました。それは、「尾張徳川家の文化的遺産を展示するので、尾張徳川家のことか、あるいは尾張徳川家の藩祖徳川義直〈よしなお〉について、原稿を書いてください」ということでした。ぼくも前号まで書いてきたように、尾張徳川家については七代目の藩主であった宗春〈むねはる〉のユニークな生き方や、あるいは藩祖義直の「学問好きの行政」に、いろいろ学ぶことが多かったので引き受けました。先号までは、尾張宗春のいわばデフレを克服して、インフレを誘致するような政策について書いてきました。経済学にあかるくないので、それがどういう位置を占めるのかよくわかりませんが、とにかく宗春は、「川の上流で華美なくらしを送り、そこで使った資金をどんどん下流に流す」という方策をとりました。下流に流すというのは、公共事業などを盛んにして景気を盛り上げるということです。九州の国立博物館の催しなども関連するでしょうが、ぼくは江戸時代の文化のあり方について、いろいろ複雑な思いがします。それは、宗春の政策によって、かつて西尾名古屋市長が、「今日の名古屋繁栄の一因は、宗春の政策にあった」という歴史的事実の受けとめ方です。そしてこのことはもっと、「後世に残るような文化というのは、やはり徳川時代にあっては武士が主導し、その背景には権力と財力があった」という事実です。江戸時代の都市文化は、名古屋も含め本当の担い手は商人でした。というのは、江戸時代は商人に現在の法人税や事業税などがかかっていなかったからです。それは儒教からきた考え方で、「農民や工人(ものの作り手)は、生産者だが、商人はみずからなにも生産しない。他人が生産したものを動かすだけで利益を得ている存在だ」という考え方がありました。「士農工商」という身分制は、儒教からきた制度です。したがって商人は江戸時代は社会的にはいちばん劣位におかれました。とにかく武士の士道は、「商業を卑〈いや〉しめ、金を卑しめ」というものです。その意味では、商人の可処分所得のゆくえが問題になります。自分のためにゼイタクなくらしをしてしまえば、淀屋辰五郎〈よどや たつごろう〉や紀伊国屋文左衛門〈きのくにや ぶんざえもん〉のように家財を没収され、本人は追放されてしまいます。そこで心ある商人たちは、「余った金を文化の育成に使おう」ということになりました。したがって徳川時代の都市文化は、江戸・名古屋・大坂・堺・博多などの大都市においては、ほとんどが商人がその資金を提供していたといえます。したがって江戸時代の都市文化はそのまま商人文化といってもいいと思います。例外は石川県の金沢です。ここは藩祖の前田利家の政策によって、大名(武士)が主導する文化になりました。ですからいまでも金沢市の市民の中には、「金沢は観光都市ではない、文化都市だ」と胸を張る人がたくさんいます。かつては「金沢では、天から謡曲が降ってくる」といわれました。それは屋根の上に乗って仕事をする大工さんや瓦職人、あるいは冬の雪吊りの準備をする植木職人たちなどもみんな宝生流〈ほうしょうりゅう〉の謡曲を唸ったからです。それほど金沢は、武士だけではなく農工商の階層にまで、文化がいきわたっていたのです。名古屋市に「徳川美術館」があります。入口から本館に向ってちょっと歩くと、右側に「蓬左〈ほうさ〉文庫」と名づけられた別棟の建物があります。蓬左文庫では、尾張徳川家が収拾した古文書の展示がおこなわれています。蓬左というのは、「蓬莱〈ほうらい〉宮の左側」という意味です。名古屋城のことをいいます。蓬莱宮というのは熱田〈あつた〉神宮のことです。尾張徳川家の藩祖義直が命名しました。義直は非常に学問好きで、とくに古代中国の思想を藩政に生かそうと努力としていました。ですから名古屋城を蓬左城と名づけたのは、「蓬莱思想に基づくような、ユートピアを尾張藩に構築したい」ということだったのでしょう。細井平洲先生も、ある時期はこの尾張徳川家の藩儒でした。名古屋城に務める武士だけではなく、一般の町人も教えの対象にしました。講義をきいたある町人が、その内容をメモしたものが現存し、その内容をぼくもかつて紹介しました。九州の国立博物館がその尾張徳川家の収蔵品の一部を展示するのですが、ぼく自身の印象では、「徳川美術館の収蔵品は非常に幅広くまた層も厚いので、いくら企画展をおこなっても展示品が絶えないのではないか」という印象を持っています。このことは残念ながら、江戸に生まれ、先祖も長く江戸に住んだぼくのような人間としては、ちょっと残念な気がします。それは東京プロパーで考えれば、徳川美術館に匹敵するような文化遺産を保存している施設が、あまり多くないからです。いくら企画展をおこなっても、収蔵品がそれに答えていく、などといううらやましい状況はなかなか望めません。
(つづく)

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