平洲塾84「"土の騎士"とは」

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ページ番号1004618  更新日 2023年2月20日

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“土の騎士"とは

先日、ぼくはある農業団体の新規採用者に「新しい社会人としての心がまえ」という題で話をしました。ぼくは農業関係の人びとに話をするときには決まって、「あなた方は“土の騎士"ですよ」と語ります。“土の騎士"とはなんでしょうか。騎士というのは社会のため、あるいは他人のために勇気をもって武器を取り社会悪と戦う人びとのことをいいます。一定の資格(素養と仕事に必要な知識と技術の持ちぬし)をいいます。騎士というのはかつてヨーロッパで活躍した紳士(ジェントルマン)のことです。当時は貴族でした。しかしそういう身分を逆に、「人民に尽す立場にある存在」と認識していました。ですから命懸けで他国へ遠征にも出かけていったのです。

なぜぼくは農業に携わる人を“土の騎士"と呼ぶのでしょうか。

いま大河ドラマで“八重の桜"というのが放映されています。会津に生まれたひとりの娘が、やがては新島襄〈にいじまじょう〉に出会って、京都に同志社大学をつくり、日本人にキリスト教を伝えるというのが大筋ですが、この八重の生まれた会津藩が明治維新のときに、反政府的存在だというので徹底的に政府軍に攻めこまれます。八重はこのとき新しい銃を使って戦うのですが、この悲劇の延長戦が、北海道の箱館戦争です。政府軍との戦争でまだそれほど損害を受けていなかった旧幕府の海軍艦隊が、榎本武揚〈えのもとたけあき〉という海将に率〈ひき〉いられて北海道に渡ります。そして、榎本は政府に嘆願書を出しました。それは、

  • 箱館(今の函館)に上陸した旧幕府軍は、決して政府に敵対しようというわけではありません。
  • 上陸したエゾ(北海道)を、幕府なきあとの失業武士が、新しく生活を得るための新天地にしたいのです。
  • われわれは武器を捨てて鍬〈くわ〉を握ります。どうかこの考えを認めてください。

というものでした。しかし新政府軍は、「賊軍がなにをいうか!」といって、歯牙〈しが〉にもかけません。つまり嘆願書は門前払いされました。そこで榎本はやむを得ず、「全滅するまで戦おう」と決意するのです。このとき攻撃軍の参謀が黒田清隆(薩摩藩出身)でした。黒田は幕末のころからオランダ語でなく英語を学ぶというナウい武士でした。そこで海外留学の経験がある榎本に対し、「降伏しますか、それとも戦いますか」と紳士的な申し入れをしました。これに対し榎本は、「戦います」と応じました。そこで黒田は、「武器弾薬が足りなければ送ります。遠慮なく申し出てください」と告げました。榎本は感動し、自分がオランダに留学したときに買ってきた国際法の本を黒田に送りました。

「この国際法は、これからの日本にとって大事なものになると思います。戦火で焼いてしまうのは惜しいのでお送りします」とこれまた紳士的な態度を取りました。日本でいう“武士道"です。黒田も感動し、「お礼です。大いに意識(モラール)を高めてください」といって、大量のお酒とつまみを送りました。血なまぐさい幕末維新の戦争にも、こういう美しい心の交流があったのです。これは互いに“恕〈じょ〉の精神"を持っていたことを物語ります。ですから“恕の精神"というのは、ある意味で、「持つ人の素養」のあらわれといっていいでしょう。箱館軍の中には新撰組の生き残りである土方歳三〈ひじかたとしぞう〉もいました。明治2年5月11日に、土方は馬上で壮烈な戦死を遂げます。直後に榎本は黒田が参謀をつとめる政府軍に降伏します。黒田は榎本の人物に惚れこみ、一旦は罪人として東京に送りますが、やがては自分が坊主になってまで政府に嘆願し、新政府での登用を願い出ます。榎本はやがて対ロシアを中心とした外交官として活躍します。

新政府が治めることになったエゾは北海道と改称されました。政府はここに開拓使をおき、黒田を次官に任命しました(長官は大名や公家)。

北海道開拓の任を負った黒田は、榎本武揚が出した嘆願書が気になってしかたがありません。つまり、「北海道を、徳川家の旧臣たちの再生の地としたい」ということです。黒田は北海道の土地を眺めて、「米作には適さない(そのころのことです。いまは北海道の米がいちばんおいしいという声が出るほど、米作に適しています)」と思いました。しかし開拓に熱意のある黒田は、「米はダメでも、豆やトウモロコシ・タマネギ・キャベツなどの野菜や酪農には適するのではないか」と考えました。そしてさらに、「しかしそういう農作物は、日本の本州ではあまり経験がない。地理・地形のおなじような外国に手本を探そう」と思い立ちます。そしてアメリカのマサチューセッツ州が北海道とよく似ていると教えられました。マサチューセッツ州には州立農業大学があります。そこで黒田はその州立農業大学の学長に手紙を出しました。

「こういうわけで、日本の新しい農業を発展のために力をお貸しください」という内容です。手っ取り早くいえば、「日本にきて、北海道で新しい農作物をつくる指導をしてください」ということなのです。州立農業大学の学長だったウィリアム・S・クラーク博士は承知しました。日本にやってきます。このとき黒田は、「新しくつくる農業学校にも学則がいるだろう」と考えて、まず案を日本語で書き、それを来日するクラーク博士のために自分の得意な英文で訳して用意をしました。来日したクラーク博士に黒田は自分の校則をみせます。クラーク博士はじっと黒田の案を睨〈にら〉みつけるように読みました。やがて、「この校則はいりません」といって返しました。黒田にすれば好意からつくった英訳の校則ですから、やはりムッとしました。

「クラーク先生、校則は必要ないのですか?」

ときびしくたずねました。クラーク博士は首を横に振ります。

「いや、校則は必要です」

「でも、わたしのつくった校則を先生はお返しになりました」

「なぜ返したかといえば、あまりにも条文が多いからです。失礼ながら、あなたのご案は50も60もあって、こんなにたくさんでは学生が守り切れません」

「では、どうなさるのですか?」

「校則はたったひとつでよろしい。それはビ・ジェントルマン(紳士たれ)です」

「・・・・・・!」

黒田は圧倒されました。考えてみてすぐ、(クラーク先生は正しい)と感じました。ぼくが農業関係者を“土の騎士"と呼ぶのは、ここに遠因があります。クラーク博士が新しくつくられる札幌農学校の学生に対し、「きみたちは紳士たれ」と告げるのは、深い意味がありました。それは、「農業学校を出ても、決して農業だけのことを考えるな。社会全体のことを考える指導者になって欲しい」という願いがあったからです。マサチューセッツ州の農業大学でもそういう教育をおこなっていました。つまり、札幌農学校ではたしかに農業に関する知識や技術を教えますが、卒業後は単に農業だけではなく、「ほかの分野でも活躍して結構だ」ということなのです。つまり「社会の指導者」としての必要な知識や技術を授けようということなのです。そのためには心がまえとして、「社会のどんな面でも指導できる能力と、とくに他から尊敬されるような品格」を持って欲しいということです。

この考えはそのまま平洲先生の、「治者は常に民〈たみ〉の親(=父・母)であれ」というのとおなじです。平洲先生のいう“親"というのは、単なる子どもを生み放しの親ではなく、「育てる過程においても、子どもから尊敬されるような存在になって欲しい」ということです。

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