平洲塾86「続・歴史の輪」

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ページ番号1004616  更新日 2023年2月20日

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続・歴史の輪

前回で、「嚶鳴〈おうめい〉フォーラムの市民主催への移行」のことを書きました。いま日本各地で、「わが郷土の誇るべき人物」として、嚶鳴フォーラム参加自治体もそうですが、多くの地方自治体がまちづくりやまちおこしなどに、その土地で生まれ育った歴史上の人物を紹介しています。これがぼくはよいことだと思います。とくに最近は、人間の美談や善行などを積極的に取り上げる風潮がかなり退化しています。はっきりいえば、「美しいことやよいことは極力扱うのを避ける」とさえ思われるからです。ですからぼくが「嚶鳴フォーラムも市民主催でおこなうようになりたい」というのは、それぞれの地域が「郷土の誇るべき人物」に対し、

  • 市民がその人物をどのように受けとめているか。
  • 郷土が誇るべき人物という設定で、その誇るべき内容はどういうことなのか。
  • そして、市民が日常の生活でその人物の誇るべき事実をどのように活用しているのか。
  • さらにいえば、その人物を地域の市民が独占するのではなく、これを地域からの他地域への情報として発信しているかどうか。

などということが大事だと思うからです。そのためにはまず嚶鳴フォーラムでいえば、参加している自治体そのものが、市長をはじめ全職員がここに書いたような、「地域の歴史上の人物の功績をどのように認識し、それを日常の職務に生かし、そして市民にPRしているか」ということが前提になると思います。ぼくはすでに85歳の高齢ですから少し毒舌を吐かせていただければ、「地域で生んだ人物を、ただエライエライといっていてもはじまらない」というきびしい考えを持っているからです。ですから細井平洲先生についていえば、「まず東海市の市民が、平洲先生のどういうところに学んでいるのか、そしてそれを他地域にどう発信しようとしているのか」ということを確立したいのです。そうなると、やはり市民にとって平洲先生が、非常に魅力のある人物であり、「平洲先生はそんなことをおっしゃり、またおこなっていたのだな」という事実の認識が前提になります。そして嚶鳴フォーラムに参加している各自治体の首長さんが紹介する他地域の人物についても、認識を広めていただければこんなうれしいことはありません。東海市からは細井平洲先生の事跡について発信し、つまり出力になります。そして、他地域の人物に学ぶことは、それぞれの地域からの発信であり、そのことは東海市側にとっては入力になります。この出力と入力の相乗効果が、電子工学でいえばフィードバックの理論になり、いわゆる、「情報の交流」が成立します。そしてこのことが、行政同士の交流ではなく、市民同士の交流に発展すれば、それこそ大げさにいえば、「日本の改革も、嚶鳴フォーラムからはじまる」といっても過言ではない状況が出現するでしょう。

その意味では、各地で紹介される人物はもちろんのこと、それを生かしている各自治体の市民にとっても、それぞれの人物の業績がなによりも身近なものであることが大事でしょう。

その意味で、前号から紹介している「嚶鳴協議会災害時相互応援関協定」の締結は、まさしく災害という市民だれにもかかわりがあり、また非常に深い関心を持つ課題を扱っていると思われます。東北から九州・沖縄にかけての応援協定は、おそらく日本でも最初のものではないでしょうか。細井平洲先生は学者です。したがってぼくたちが平洲先生から学ぶことは、学者としての平洲先生の言行の中から、いまのぼくたちの生活に生かせることを学び取ろうということが主になります。しかしそれが発展して、アップ・ツウ・デイト(今日的)な、災害という広がりを持った課題に対し、協議会の参加メンバーが積極的に対応して、応援協定を結んだことはとても意義があり、同時にうれしいことです。

平洲先生と災害とは決して無縁ではありません。ご承知のように平洲先生はある時期に尾張藩(名古屋藩)徳川家の藩儒として活躍されました。藩内を流れる庄内川が嵐によって氾濫〈はんらん〉したときに、平洲先生は学業を中止し、自分が先頭に立ってその修復工事に努力されました。このとき門弟をすべて労務者として活躍させています。したがって今度の応援協定ができたことを、平洲先生も泉下〈せんか=あの世〉で、「それもわたしが願っていた教えのひとつですよ」といって、大いによろこばれるにちがいありません。

前回からぼくは「歴史の輪」ということを提唱しています。これは嚶鳴フォーラムでいえば、すでに書いたように「各地域の人物が、お互いに影響し合って相乗効果を起こしている」という現象を大切にしたいからです。

手っ取り早くいえば、平洲先生は、熊本藩細川家の藩儒である秋山玉山〈あきやま・ぎょくざん〉と大の仲良しでした。親友です。しかし平洲先生が熊本へ出かけていって玉山先生と語ったり、お互いに刺激を与え合ったわけではありません。ふたりがしばしば会ったのは江戸です。当時の日本の大名には「参勤」という義務がありました。江戸にいって一年間江戸城に勤務することです。そしてその任期が終わって故郷の藩へ戻り、いまでいう地方行政に携わることを「交代」といいます。参勤というのは江戸へいくことであり、交代というのは故郷へ戻ることです。

これが頻繁〈ひんぱん〉におこなわれますから、当然藩儒として学者も主人(藩主)の供をして、江戸にやってきます。
(つづく)

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