平洲塾77「「嚶鳴之図」の発見(1)」

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ページ番号1004626  更新日 2023年2月20日

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「嚶鳴之図〈おうめいのず〉」の発見

前号までに紹介したのが、米沢信用金庫が出版した『米沢における敬師の系譜』の内容でした。とくに、かかわりを持つ方々のこの本を出版に対する讃辞を紹介しました。米沢の本ですから、当然米沢にかかわりのある方を中心にして、「法学者我妻栄〈わがつまさかえ〉先生と、その恩師であった赤井運次郎〈あかいうんじろう〉先生」の話がメインストーリーになっています。しかし、このおふたりの話を語るのにもなんといっても、「上杉鷹山とその師細井平洲」の師弟愛が源になっています。

東海市が主導してきた「嚶鳴フォーラム」という集まりがありますが、今年は10月の中旬に米沢市でおこなわれました。今年は、ひとつの話題があります。それは、江戸時代に描かれた「嚶鳴之図〈おうめいのず〉」が発見され、これが紹介されたことです。この図はサミットの会員である大分県竹田〈たけた〉市の首藤勝次〈しゅとうかつじ〉市長さんが、長年書画骨董〈こっとう〉への関心を高められた結果、偶然発見されたものです。ぼくがゆずっていただきました。「嚶鳴之図」と名づけられたこの絵には、13組の鳥のつがいが描かれています。それぞれ木の枝に止まって、お互いになにか語り合っています。嚶鳴というのはもともとは、「鳥がオウオウと鳴きながら語り合う」という意味があります。鳥が鳴き合うのは主として愛を語ることですが、細井平洲先生は、「鳥が鳴き合うのは単に愛を語るだけではない。身近に起こっている社会問題をどうすればいいか議論しているのだ」とおっしゃっています。ですから平洲先生が江戸に設けられた「嚶鳴館〈おうめいかん〉」という学塾は、その意味で、「わたしの塾に通ってくる学生たちは、身近に起こっている社会問題をテーマにして大いに議論して欲しい」という意味がありました。平洲先生はこの嚶鳴塾で教えるだけでなく、積極的に両国橋のいまでいえば青空劇場のようなところで、落語家や漫才などの芸能人に混じって講義をしたことはあまりにも有名です。これは先生が単に講義をするだけでなく、町の空気とくに庶民の悲しみや苦しみを身近なこととして身につけ、それを嚶鳴塾に持ち帰って学生たちに披露し、「現実には、こういうことが起こっているのをわすれないように」という、いわば、"社会のアップ・ツウ・デイト(今日的)な空気を読め"ということだったでしょう。一時流行〈はや〉った「KY(空気が読めない)」という言葉とおなじです。先生は、「時代の空気が読めなければ、いくら社会問題をテーマにしてもほんとうの解決策は発見できない」ということだったと思います。

『米沢における敬師の系譜』の話は、これで終わりにしたいと思いますが、ひとつ気づいたことがあります。それは米沢信用金庫の存在です。というよりも、日本国内の信用金庫のことです。信用金庫は、もともとは信用組合と名乗っていました。そしてその骨格は「協同組合」といわれます。たまたま今年(2012年)は、国連が主導する「国際協同組合年」です。国連は、「改めて、協同組合の精神を世界の人びとに生かしてもらいたい」という趣旨でこの提唱をおこないました。しかし、残念なことに、いまになっても日本の政府やマスコミが、積極的にこの趣旨をPRし、日本人自体に覚醒〈かくせい〉を促〈うなが〉がした事実はあまりありません。はっきりいえば、「この提唱に冷淡だった」というのが実態だと思います。協同組合というのは日本でいえば、たとえば農業協同組合・信用組合・生活協同組合などがこれに入ります。国連の趣旨を日本側で噛〈か〉み砕〈くだ〉いてPRした出版物がいくつかあります。それによると、「協同組合の精神」というのは、

  • カネとカネによって結びついた組織ではない。
  • ヒトとヒトとの結びつきによってつくられた組織である。

と書かれています。ヒトとヒトとが結びつくというのは当然「人間の心と心が結びつく」ということでしょう。人間の心と心が結びつくというのは、いわゆる"絆〈きずな〉"のことです。しかしなんによってその絆ができるかといえば、先号にもタイトルに書いた、「恕〈じょ〉の精神」だと思います。恕というのはいうまでもなく、「いつも相手の立場に立ってものを考えるこっち側の心のやさしさと思いやりのこと」をいいます。

ですから、協同組合の設立の意志というのはもともとは、「やさしさと思いやりによって結ばれた絆」を骨格としてつくられた組織のことなのです。米沢信用金庫もおそらく前身は信用組合であり、協同組合法によってつくられた組織だと思います。したがってこの『米沢における敬師の系譜』という本も、その理念の具体化でしょう。

これはそのまま細井平洲先生のこの世に対する態度を実現したものです。ただしこのごろよく考えるのですが、すぐれた人たちの持つ思想や考え方は、「決してその人ひとりではない」ということを感じます。つまり、「よい考えや思想は、おなじものを多くの人が同時に持っている」ということもあるということです。したがって平洲先生の思想や考え方も、必ずしも平洲先生ひとりの専有物ではなく、「同時代に、日本の各地にはたとえ会うことがなくても、おなじものの考え方に立脚している人がたくさんいた」ということがいえると思います。このことは、「わたしが最初に考えた」とか、「その考え方は、すでにわたしがいつごろに発表した」などといういわば"パテント(特許)争い"をするような事柄ではないと思います。つまり、「いいことなら、いつ・どこで・だれが発表しようと表現しようと、それはそれでお互いに認めるべきだ」ということではないでしょうか。おそらく平洲先生はそういう考えの立場に立ちつづけていたと思います。だれかが、「先生、おなじことをどこのだれかがいっていましたよ」といっても、先生はおそらく、「そうか、それはよかったな」と笑うだけだったでしょう。心の中だけで、「そうか、自分とおなじ考えを持つ人がほかにもいるのだ。これはうれしいことだ」と微笑んでおられたことでしょう。目くじらを立てて、「それはけしからん。文句をいおう」と居丈高〈いたけだか〉になるような真似〈まね〉は絶対にしなかったと思います。(つづく)

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