平洲塾74「吉田松陰の米沢の印象」

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ページ番号1004629  更新日 2023年2月20日

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吉田松陰の米沢の印象

前回までに紹介した『米沢における敬師の系譜』は、「米沢信用金庫叢書1」として非売品として発刊されたものです。しかしこの本が出版されるときには、米沢市関係の多くの有識者が「序」を寄せています。その序には必ず上杉鷹山公と細井平洲先生のつながりが引用されています。その部分を主にして、それらの「序」を紹介しましょう。

その前に、ちょっとご紹介したいことがあります。それは幕末の教育者吉田松陰のことです。若き日の松陰は、ご案内のように九州から東北の青森まで自分の足で歩いて、見聞しました。それは、日本国に迫る欧米列強の圧力を跳ね返すために、松陰が、「もし外国が日本を侵略したときは、この国はわれわれ自身の手で守らねばならない」という決意のもとに、それでは、「国を守るにしても、どこでどのように守ればよいか」ということを探索しようとしたからです。

具体的には、砲台をどこにつくり、あるいは守備兵をどこに配置すればいいかを丹念〈たんねん〉に調べ歩いたのです。この東北地方の旅行で各藩(大名家。いまの地方自治体)を歩くときに、それぞれの藩は関所を設けていました。もともと「藩」というのは「垣根あるいは塀〈へい〉」の意味があります。したがって各藩は自分の行政地域を守るためにそれぞれの国境〈くにざかい〉に関所を設けて、旅行者の出入をチェックしました。いちばん簡単なのは、旅行者が、「どういう目的でどこへいくのか」ということを書いた証明書です。これを「切手」といいました。したがって関所役人はその切手の発行者がどこかの藩にかかわりのある役所であればいちばん信用します。あるいは有力な学者とか武術の先生とかいえば、そのまま通過させました。が、あいまいな目的で旅をする者はなかなか通してもらえません。松陰の場合には切手がありませんでした。それは藩の許可を得ずにいきなりとび出してきたからです。それほど松陰の心は"とぶが如く"逸〈はや〉っていました。迫りくる外国の脅威に対応するために、松陰は心が急いで、一日も安らぐことがなかったのです。このとき東北地方を歩きまわった松陰は、次のように書いています。

「東北地方の多くの藩では、やはり関所を通過することがなかなか難しかった。いろいろ調べられたし、また役人にワイロを強要されるところもあった。ただ、米沢藩だけはそんなことはまったくなかった。ここは関所も木戸〈きど〉が開けっ放しで、いつでも自由に通れた。さすがに米沢はお国柄だと感心した・・・・・・」という意味の文章です。

松陰も教育者です。ですから、「その国の民〈たみ〉が、温かい心を持っているかどうかは教育によることが大きい」と認識していました。松陰が感じたのは、「米沢藩においては、教育がいき届いている。だから人びとがみんな温かいきもちを持っている」ということだったのです。

* * *

さて本題に戻ります。いまテキストにしている『米沢における敬師の系譜』は、昭和45年(1970)1月31日に発行されました。したがってこれからご紹介する「序」の書き手のポストも、当時のものです。もちろん、すでに40年近く前のことですから、亡くなった方もいらっしゃると思います。が、それぞれが寄せられた「序」の文章は、いま読んでも決して古さを感じません。それは平洲先生がいまだにわれわれの胸に大きな影響を与えているのとおなじことです。最初に当時の米沢市長吉池慶太郎〈よしいけけいたろう〉さんの「序」をご紹介しましょう。

「師は師としての使命観に徹〈てっ〉することによって師としての価値があり、この師に対して弟子は限りない尊敬の念を抱くことによって弟子たるの資格があると言えましょう。

師としての価値のないものを敬えというのも無理なことであり、又〈また〉、弟子は弟子としての資格がないならば、この相互関係は教育不在と言わなければなりません。

「師は師たれ、弟子は弟子たれ」の合言葉は、如何〈いか〉に世の中が移り変わろうと変わらない真理でありましょう。

米沢は、昔から教育の都市と言われる所以〈ゆえん〉のものは、鷹山公以来、この師弟のうるわしい人間関係が次々と継承され、伝統化されたところにあると思います。

教育の場に師弟の関係が荒れすさんだ一面を見せつけられる昨今、『米沢における敬師の系譜』を出版されましたことは、米沢教育の危機を救うものとして心から敬意を表するものであります」次に、元国務大臣・衆議院議員の木村武雄さんが書いた「序」です。

「今時〈いまどき〉、地を払ったものに師弟の情愛がある。そして又〈また〉、どうしても復活せしめたいものに師弟の情愛がある。

歴史に顧〈かえ〉りみて、古今の偉人傑士〈いじんけっし〉はその大半が師弟の情愛から輩出しておる。それだけに封建的な弊〈へい〉はみな捨て去っても、師弟の情愛だけは復活せしめたいものである。

明治維新を回顧すれば吉田松陰の門下生に高杉晋作〈たかすぎしんさく〉・久坂玄瑞〈くさかげんずい〉・木戸孝允〈きどたかよし〉・伊藤博文〈いとうひろふみ〉・山県有朋〈やまがたありとも〉の俊秀〈しゅんしゅう〉があり、西郷隆盛〈さいごうたかもり〉・大久保利通〈おおくぼとしみち〉は島津斉彬〈しまづなりあきら〉の教え子だった。元田永孚〈もとだながざね〉から明治天皇が、福沢塾から池田成彬〈いけだしげあき〉さんを始めとする渋沢栄一〈しぶさわえいいち〉等の経済人が出ている。上杉謙信公からは(上杉)景勝〈かげかつ〉・直江兼続〈なおえかねつぐ〉等が生まれ出た事を思う時、人材を生む点に於〈おい〉ては人対人のつながりが公式な学校教育の比ではないことは論をまたない。

私の興譲〈こうじょう〉小学校時代である、隣りの組の先生が赤井運次郎先生で、私の組の受持ち先生が鹿股文三郎先生だったと記憶している。両先生ともに生徒からは親以上に親しまれて、おこられても叱〈しか〉られても褒〈ほ〉められても先生の膝下〈しっか〉を誰れ一人去るものはなかったが、いわゆる「よく遊び、よく学ぶ」先生と当時は思っておった。だが、成長するにつれて先生の学問の深さや、人格の奥行きのあまりにも広いのがわかって、やはり両先生の身についた学問のすべてが濾過〈ろか〉されて教え導く絶対的な境地をもたれたことに気づいて一入〈ひとしお〉尊敬の念が高まった。

我妻栄〈わがつまさかえ〉先生は東京大学、昔の帝国大学始まって以来の秀才ときいておる。私ごとき鈍才〈どんさい〉は足許〈あしもと〉にも及ぶべきではないが、日本の民法はこの我妻先生によって集大成されて金字塔となるときくが、この我妻先生を育てられたのが赤井運次郎先生である。先生あって我妻先生の飛竜〈ひりゅう〉する下地がつくられたことを思うとき、師弟の情愛の偉大さに今更ながら驚嘆せざるを得ない。(・・・以下略・・・)」(つづく)

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