平洲塾64「名作『木を植える男』」

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ページ番号1004639  更新日 2023年2月20日

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名作『木を植える男』

細井平洲先生は、災害にあった後の復興を「非常な時に非常な法を用いる」といういい方をされました。しかし平洲先生はよく、ものごとを「樹木」にたとえます。先号でご紹介したように、復興に当たってのトップは「木の幹」であり、その部下や家族、あるいは住民たちは「枝と葉」にたとえます。したがってなによりもしっかりしなければいけないのは幹であり、幹の動向によって枝葉も左右されます。つまり幹の生き方如何〈いかん〉によっては、枝葉もその生死をともにするのです。ですから、幹である立場に立った存在がなによりも状況を"非常の時"と認識して、"非常の方法"を講ずるべきだというのです。しかしだからといって平洲先生は、ものごとを「木」に見立てる以上、木の生成について、ムリに自然の法則に反してまでおこなえということではありません。あくまでも天の理である"自然の法則"は重んじなければなりません。平洲先生が"非常の方法"というのは、「ノーマル(平常)なときであれば、木を1本植えればすむものを、非常の際には50本も100本も植えなければいけない」ということだと思います。
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平洲先生が指導した出羽〈でわ〉国(山形県)米沢藩の藩主上杉鷹山に改革の方法を示したときに、ふつうの木を植えることも大事だが、農民が現金所得を得られるような木を植えることも大切です、と教えました。
江戸時代の東北地方には、木綿〈もめん〉・ミカン・茶・ロウソクなどができません。しかし激しい労働にアセを流す農民たちにとって木綿の着物は必需品です。東北地方では麻〈あさ〉ができますが、麻の着物ではすぐ破れてしまいます。そのためにどうしても農民やものづくりの職人たちは木綿の衣類を欲しがります。またときにはお茶も飲みたいでしょう。ミカンも食べたいと思うでしょう。そしてさらに夜なべ(時間外勤務)や、勉強するためにも夜の灯火としてロウソクは欠くことができません。しかしその原料ができないとすればできるところから輸入しなければなりません。輸入するにはお金がもっといります。そうなるとそのお金を稼がなければなりません。ですから平洲先生は鷹山に、「お金が得られる植物を植えましょう」と助言したのです。鷹山はこの平洲先生の教えを守りました。東北地方でできる植物に付加価値を加えるということは、それなりに"チエ"を出し、同時にまた"アセ"を出すことです。鷹山の指導によって、クワの木がたくさん植えられ、カイコを飼う準備がととのいました。またロウソクの元になるハゼの木が育たないので、そのかわりにウルシの木をたくさん植えました。ウルシの木から蝋〈ろう〉が少し採れるからです。またコウゾの木を植えて、その皮から和紙をつくることを教えました。またそれまでは野生の花として手をつけなかった紅花もたくさん植えました。将来とれるであろう絹の織物に、この紅花で色づけをすれば、美しい織物ができると思ったからです。これらの"チエ"と"アセ"は、すべて平洲先生のいう、「非常の方法」です。非常の方法というのは、「ノーマルな時代には思いもつかなかったチエとアセを出すこと」なのです。
平洲先生がいわれたように「非常の時を乗り切り、地域を復興させる原資は人間と土以外ない」というのは永遠の真理です。
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高齢者になったせいか、わたしは時折親から相談を受けます。それは、「うちの子どもは悪ガキでどうしようもない、どうしたらいいでしょう」という相談や、「子どもが将来なにをしていいか迷っています。指針を与えてください」というのがあります。そういうときにぼくは一冊の本を贈呈します。ジャン・ジオノ(画はフレデリック・バック)という人の書いた『木を植える男』という本です。もともとは絵本なのですが、世界中で愛され、また読まれました。ちょうど少女時代に"赤毛のアン"を読むのとおなじような効果があります。
物語は簡単です。生きる希望を失い、どこにいっていいかわからないある若い男が、山にさしかかりました。天候も悪く、希望もない若者はある一軒の山小屋にたどり着きました。山小屋にはひとりの老人が住んでいます。老人はなにもいわずに若い男をみると中に招き入れました。以後、若い男は老人の世話になります。若い男が老人の生き方をみていると、老人は山で得た木の実をひとつずつ丁寧〈ていねい〉に山に植えています。若い男ははじめはバカにしました。「そんなことをしたって、老人が生きているうちに木が育つものか」と思っていたからです。しかし老人のひたむきな姿をみているうちに、若い男もだんだん考えが変わりました。そして老人を手伝うようになりました。老人は多くは語りませんが、若い男に丁寧に木の実の植え方を教えます。やがて若者はひとりでも木の実を植えられるようなりました。道具を使って穴を掘り、ただその中に木の実を落としてまた土をかけるという単純な作業ですが、この単純な作業をつづけているうちに若者はいろいろなことを悟りました。それは、「あれもやりたいこれもやりたいという若いうちの希望を全部満たそうとしてもそれはムリだ」ということです。あるとき若者は老人にききました。
「あなたはなぜ木の実を山に植えるのですか? あなたが生きているうちに木は育たないでしょう」すると老人は笑ってこう答えました。
「おまえさんのいうことはよくわかるが、わしはなにも自分のために木を植えるのではないよ、これから育つ子どもたちのために木を植えているのだよ」この言葉は若者にとって衝撃的でした。若者ははじめてああそうかと悟りました。そして老人の言葉とその行動の意味がはっきりわかったのです。若者はいままでと違ったきもちを持って木の実を植えはじめます。
やがて老人は死にました。若者は生きつづけます。そしてヒマさえあれば木の実を山に植えつづけます。老人と若者の努力によって、やがて木は育ちました。そして育った幹はたくさんの枝葉をつけ、また多くの実をもたらしました。
気がついたとき、若者も相応の年齢になっていました。しかし、老人とかれの努力によって植えた木の実はみごとな林となり森となっていました。
政府や開発業者がこの山の木に目をつけます。そして木の一部を生かした開発計画をもたらします。しかし、若者は必死になってその開発をやめてもらおうと嘆願します。木を切り払われて建物が建ってしまえば、あの黙々として木の実を植えつづけた老人の苦労がいっさいなくなってしまうからです。老人がいった、「わしのために植えるのではなく、将来の子どもたちのために植えるのだ」というあの言葉は、若者(いまは老人)の頭から離れません。若者もまったくおなじ考えになっていたからです。この若者の熱意に打たれ、政府も開発業者も山を切り拓くことを諦めます。山はいままでどおり深い林となり、森となって麓の人びとを楽しませました。
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ぼくが親から相談を受けたときに、この本を贈呈しているのは老人のいった、「自分のために木を植えるのではなく、子どものために植えるのだ」という言葉が、あるいは今度の東日本の大震災の復興期に大いに役に立つのではないか、と思うからです。多くの人が「復旧ではなく復興だ」といいます。そのとおりだと思います。復旧というのは、ただ被災地を元の形に戻すことですが、復興というのは違います、そこに創造的な要素が加えられて、新しい地域に仕立て直すことです。しかしそのときにも、この『木を植える男』のモチーフである、「自分たちのためだけでなく、将来の子どもたちのために木を植える」というきもちが必要なのではないかと思います。平洲先生がおっしゃっていることもそういうことではないでしょうか。平洲先生こそ、「いま生きている人間のためだけでなく、将来の子どものために植える木の種」をさし出した人物だといえるでしょう。

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