平洲塾71「敬師の系譜をつくった平洲先生(1)」

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ページ番号1004632  更新日 2023年2月20日

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人と本との出会いは事件です 敬師の系譜をつくった平洲先生(その1)

本好きの方なら経験したことがおありだろうが、本と読み手の関係は、読み手が「こういう本を読みたい」
と探す場合もあるが、実をいうと本のほうでも、「こういう人に読んでもらいたい」と思っている場合がある。いってみれば、人間と人間の"出会い"とおなじように、"本と人間との出会い"があるのだ。最近そういうできごとに出合った。古本屋においてである。棚の隅から呼び声がきこえるような気がした。

「童門さん、わたしをみつけてくださいな」という声だ。その声につられて棚の一隅をみると、『米沢における教師の系譜』(上村良作著・米沢信用金庫叢書)というのがみつかった。

米沢や上杉鷹山や細井平洲先生については、一日たりとも忘れたことのない関心を持っているので、すぐ買った。仕事場に戻って開いてみると、おどろいた。もともと米沢信用金庫で出す叢書は、上杉鷹山の本も直江兼続の本も、大切に読み参考にさせていただいている。『小説 上杉鷹山』は、ぼくが「山形新聞」に連載し、単行本にまとめたものだが、資料はたった2冊しかない。その一冊がこの米沢信用金庫で出した『上杉鷹山』に関する叢書である。

だいたいが、たくさんの資料を集め、その中から必要な部分を取り出すという、いわば「帰納法〈きのうほう〉」的なやり方をぼくはあまりしない。むしろ「演繹法〈えんえきほう〉」という方法を多くとり入れている。この違いは、「帰納法」というのは、多くの資料を集め、また史跡なども探訪してそのうえで、「過去の事件や過去の人物を再現する」という方法だ。が、「演繹法」のほうは違う。

  • はじめからかなり結論を用意している。
  • その結論にみあうような資料や史跡を探す。

というやり方である。したがって、正当な「帰納法」に比べると邪道だと思っている。また危険だ。しかし、ギリギリの段階まで、これが許容されるならば、やはり読む人にとってはそのほうが面白い。したがって、「スレスレの極限まで冒険をする。危険を冒す」というのが「演繹法」だ。だから書くものに歴史にあってはならない「if(もし)」がかなり入る。真面目な研究者にとっては、「ここまで想像の枠を広げるのは少しいき過ぎではないか」と思われることもあるにちがいない。そういう良心的な研究成果をあだにするようなことはしたくないので、ぼくの場合にはかなり"if"を活用しつつも、その裏づけは一応用意している。すなわち、ある人物や事件を書いたときには必ずその地域にいって、地域に関してお書きになっている郷土史家の本を参考にする。つまり、「自分のifはゆるされる範囲なのか、それともゆるされない範囲に突入してしまうのか」ということを確認するためである。いまのところ、そういうクレームもつけられることもないので、一応は自説をそのまま活字にしている。

ぼくが『米沢における教師の系譜』を読んでおどろいたのは、有名な民法学者の我妻栄〈わがつま・さかえ〉博士と、その小学校の先生だった赤井運次郎先生との交流を、「上杉鷹山と細井平洲先生の関係とおなじだ」と断じていたことである。我妻博士が赤井先生に学んだのは、小学校の3年間だけだったという。ところが我妻博士の赤井先生を慕うきもちは生涯つづく。

昭和44年(1969)2月9日に、赤井運次郎先生は亡くなるが、その葬儀が2月12日午後2時から、米沢市相生町正円寺においておこなわれた。このときの葬儀委員長は我妻博士であって、長い弔詞〈ちょうじ〉を読まれた。今回から、4回にわたってこの弔詞をご紹介する。少し長いが、しかしこの弔詞の中の我妻博士と赤井先生の関係が涙を滲〈にじ〉ませるほど感動的なので、割愛するわけにはいかないのだ。この長い弔詞の中に、すなわち、「師と弟子の愛情」がみなぎっている。ぼくもすでに高齢(84歳)になるので、他人の死にも多く際会し、なかには弔詞を読んだ葬儀もあった。しかし、これほど感動的な弔詞はきいたことがないし、ぼく自身書いたこともない。その意味では、我妻博士のこの弔詞は単に一師に対するものではなく、「人間として持ち得る最高の心情」を示すものだと思う。我慢して読んでいただきたい。

* * *

《我妻博士の心の弔詞》

先生。とうとうお別れするときが参りました。こんなに早く、このときが来るだろうとは夢にも思いませんでした。

一昨年、私が、胃潰瘍〈いかいよう〉で手術をしましたときには、先生は、たいそうご心配下さいました。幸いにも、その経過がよく参りましたので、先生も喜んで下さいましたが、実は、昨年7月、急に脱水症状をおこしまして、再度、入院いたしました。このことは、先生に申し上げると定めしご心配下さるだろうと思いまして、実は、申し上げなかったのです。けれども、先生は、どこからか、それを耳にされたかどうか。その後、先生のお葉書には私を激励して下さるお言葉が非常に多くなりました。私は、そのお言葉に励まされながら、回復につとめて参りましたが、どうも、再度の入院で、すっかり健康に対する自信を失ったようなわけでありました。

しかし、これから春にかけて、湯河原〈ゆがわら〉海岸の寓居〈ぐううきょ〉で過ごしましたときに、先生に、さし上げた寒中お見舞いには、「孫も来ないで、2人の年とった夫婦が、犬を2匹相手にして、静かな春を迎えました」と書いてやりましたが、先生は、「君の葉書を見て、君たち夫婦も、だんだん年とってくる様子が偲〈しの〉ばれて、微笑〈ほほえ〉ましく感じた」と書いてあったのですが、そこまでは結構なんですが、そのあとに、「俺も、最近は、歩くと足がガクガクして、いくじがなくなった」という一句が書いてありました。これは、先生からいただくお葉書には、かつて無かったことでありまして、私は、おやっと思ったのですけれども、それが、相当悪いご様子であったということは、想像もいたしませんでした。

先生は、私を心配させると悪いと思って、ご自分のお体の、あまりよくないことを、知らせないでおいでになったんだろうと思います。そのことを考えるにつけても、誠に申しわけなく思って居ります。そして、今日、お別れをしなければならないことを、心から悲しく思います。(つづく)

【注】我妻栄博士:明治30年(1897)~昭和48年(1973)、米沢市出身。日本の民法学の創始者で「民法の父」と呼ばれる。

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