平洲塾73「敬師の系譜をつくった平洲先生(3)・(4)」

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ページ番号1004630  更新日 2023年2月20日

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我妻〈わがつま〉博士の心の弔辞〈ちょうじ〉 敬師〈けいし〉の系譜をつくった平洲先生(その3・4)

《民法学者・我妻栄博士が、小学校時代の恩師・赤井運次郎先生の葬儀で読んだ弔辞のつづき第三回目。掲載にしばらく間が空きましたので、少し長いですが、最後まで一挙に紹介します》

明治百年を記念いたしまして、私は、東京大学の現役の先生四・五人と一緒になりまして政治裁判史研究会というものを組織いたしました。この政治裁判史研究会というのは、何を研究するのかと申しますと、明治百年の間に、日本の進展を示す幾つかの政治的な問題があったわけでありますが、それらの問題が、裁判というものによって、どういう結末をつけられたものかということを知っている人は、案外少ないのであります。早い話が、雲井竜雄〈くもい・たつお〉は新政府を転覆させようとして、奥州連盟をつくろうといたしましたが、志成らずして、明治三年に梟首刑〈きょうしゅけい〉に処せられたということは、米沢人でなくとも、相当多くの人が知っていると思います。しかし、雲井竜雄は、あの処刑を受けるために、どんな仕組みの裁判を受けて、処刑されたのかということになると、米沢人でも、案外知っている人が少ないだろうと思います。そこで、私は、私の立場から、その時の裁判の仕組み、そして、その裁判の原本に近いものが、法務省に所蔵されて居りますので、それを写真判にとって出すというようなことをやってみようと考えたわけであります。そういう意味で、政治的に、皆の知っていることでありながら、如何なる裁判の仕組みによって処刑されたのかということは、案外知られていないのであります。明治憲法施行直後の大津事件というのは、先生もご承知の通り、裁判として有名なものでありますが、例えば、足尾銅山鉱毒事件、あの時の騒動をおこした百姓さんたちは、どういう裁判を受け、どういう処刑をされたのだろうか。明治三十八年の日露戦争講和後の日々谷焼討ち事件、あれを知っている人も多いと思いますが、あの時の人たちはどういう処罰を受けたのか。大正七年の米騒動、あるいは所謂〈いわゆる〉大逆事件。東京の大震災に関連しておきた甘糠事件、下っては二・二六事件。こうした政治的な大きな事件が、如何なる仕組みの裁判によって、如何なる判決を受けたのか、ということを調べて参りますことは、それは、すなわち、政治権力に対して、司法権が、如何にして確立されて来たのだろうかということの歴史を示す飛石であります。また、裁判を通じて、個人の自由、人権というものが、如何にして確立して来たかということを示す歴史でなければなりません。私たちは、このことを明らかにするために、この研究会を設けたのでありますが、その研究の成果を『日本政治裁判史録』という名前のもとに、五冊の本としようと思いまして、その第一巻が、去年の暮十一月頃に出版になりました。

先生は、定めし興味をもって下さることだろうと思いまして、その第一巻をお送り申し上げましたところが、先生は、案の丈、非常に喜んで下さいまして、「君からの小包が来たので、すぐ開けて、まず、第一に雲井竜雄のところを一気に読んだ。それから、いろいろな事件を、子ども心に知っているような事件が、次々と出て来るので、非常に興味があった」といって喜んで下さいました。そこで、私は、「本年中に、もう一冊、出版される筈〈はず〉だから、それをお送りします。この本二冊あれば、米沢の冬は、如何に長くとも、先生は、退屈なさらないでしょう」と、書き送ったのであります。

これだけ、先生のお許しを得て、ご列席の皆さまに、ご披露申し上げましたが、これからは、先生と一緒に聞いていただきましょう。

先生は、あの本の中に、読書カードがはいって居りましたのに、丹念に書き込んで、お送りになりましたね。あの中に、『赤井運次郎、年令九十二才』と書いてあったものですから、編集に関係している連中は、驚いたわけです。九十二才のお爺〈じい〉さんが、この本を読んでくれたのか。そして、この本は、どこから手に入れられたかという欄には、「最愛の弟子、我妻栄君の寄贈」と書いてあるのです。それで、皆は、ああ、我妻先生から、かねがね聞いたり随筆で読んだりした老先生というのはこれだと、その老先生が読んで下さったというので、非常に驚きもし、喜びもいたしました。九十才(注:原文ママ)。いうまでもなく最高年令でありました。その次が七十二才の大分県知事なそうであります。名前をちょっと今失念いたしましたが、その七十二才の大分県知事が、これを読まれて、読者カードをお返し下さったのが、二番目の高齢者でありまして、それからあとは、六十才を出ない人ばかりなそうであります。

先生は、「米沢の高齢者番付で、まだ、三役に入っていない。俺は、やがて、大関から横綱までいくつもりだ」ということを、いつか私に、手紙に書いて下さったことがありました。その三役にお入りにならないで亡くなられたことは、定めし残念に思っておいでになるだろうと思いますが、この全国から寄せられた約一千に近い読者カードの中では、先生は、まさに、最高の年令、横綱であります。しかも、大関を抜くこと、まさに二十才。横綱も横綱、大横綱でありますから、どうぞ、先生、お喜び下さるようにお願いいたします。

ところで、第二巻が、昨年中に、先生のお手もとにお届けすることができると申したのでありますけれども、いろいろな都合で、遂に発刊になりませんで、つい数日前、第二巻が出来あがりました。先生にお送りするいとまもありませんでしたが、私の手もとに届きました。これは見本刷りでありますが、第二巻を持って参りました。

先生、どうぞ第一巻にあわせて、この第二巻をお読み下さい。そして、静かな里で、お読み下さいまして、米沢の長い冬が過ぎるようにしていただきたいと思います。

どうぞ、お受けとり下さい。

先生、ご報告申し上げることは、以上の二つであります。

最初に申しましたように、私は最近健康に対する自信を失ないましたが、先生ともお約束しましたように、私の終生の念願たる民法講義を完成するためには、まだ、二冊半書かなくてはらなんと申し上げました。その半冊のところは、去年の十一月十五日に、辛うじて出来あがりました。まだ、二冊残って居ります。これを完成しないで、命を終わるようなことがあっては、先生に対してだけでなく、世の中に対しても、申しわけないと思いまして、いろいろな雑務を、すっかりやめまして、一意専心、この二冊の本を書こうと決心いたしまして、この新年から、執筆をはじめました。先程も申しましたように、不思議と、先生は、激励の葉書を、去年の暮から今年の春にかけて、たくさん下さいました。私は、それに励まされながら、先生のお姿を思い浮べつつ、筆を走らせたわけでありました。勿論、まだ、緒についたばかりでありまして、おそらく、今年中に脱稿することができたら、成功だろうと思って居ります。しかし、先生の激励のお言葉を、常に心にいだきながら、本年中に脱稿して、来年早々、完成いたしましたら、これまた、ご霊前に献げようと思います。

先生。どうぞ、静かな里から、私に対して、従来通りの激励を、お続け下さるように、心からお願い申し上げます。
これで、お別れいたします。(おわり)

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