平洲塾67「土でつながるヒューマニズム 2(喜多方で生きつづける中江藤樹(3))」

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ページ番号1004636  更新日 2023年2月20日

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土でつながるヒューマニズム〈土の思想家たち〉その2 喜多方で生きつづける中江藤樹(3)

最近改めて考えるのですが、江戸時代の日本にもたくさん農業思想家や指導者がいました。愛知県(そのころは尾張〈おわり〉と三河〈みかわ〉の両国)にも大蔵永常〈おおくら・ながつね〉や、大蔵を招いた渡辺崋山〈わたなべ・かざん〉、あるいは足助〈あすけ〉(現代の豊田市)出身の禅僧鈴木正三〈すずき・しょうざん〉やその弟で天草〈あまくさ〉の代官になった重成〈しげなり〉、あるいは細井平洲先生などもすべて、「土を母体とした思想家」といっていいでしょう。細井平洲先生の、「荒れた土地の再興や復興は、土とそれを耕す農民が大きな資源である」という言葉は、そのまま今度の東日本の大震災後の復興にも当てはまるでしょう。そう考えると、江戸時代に真剣に、「母なる大地から復興の活力を得よう」と努力した多くの人びとは、土をひとつの媒体として志がそれぞれつながり合っていたような気がします。相模〈さがみ〉(神奈川県)の出身の二宮金次郎〈にのみや・きんじろう〉や、また近江聖人といわれた滋賀県の中江藤樹〈なかえ・とうじゅ〉などもこの中には入るでしょう。
そして、土によって結ばれるこれらの人びとに共通するのは、土に対する深い愛情だけではなく、そこに住む人びとへのヒューマニズムがあったと思います。そう考えると、これらの人びとからバラバラに学ぶのではなく、ひとりひとりを点として捉〈とら〉え、点と点を結ぶ線と線を考え、さらに線が太くなり広がって面となるような考え方も大事なような気がします。
そう考えると、喜多方〈きたかた〉市で改めて中江藤樹の勉強をしようというのも、そういう志の一環のように思えます。
黒田清隆〈くろだ・きよたか〉が、アメリカからクラーク博士を招いて、「北海道の風土に適した農作物をつくるために、新しい農業知識と技術を学ばせよう」と考えた札幌農学校の発想は、もともとはかれが明治維新のときに敵対した榎本武揚〈えのもと・たけあき〉の構想から得たものでした。榎本武揚は箱館〈はこだて〉の五稜郭〈ごりょうかく〉にこもって明治新政府に敵対しましたが、しかしかれはオランダに留学した新しい思想の持ちぬしでしたから、単に、「徳川幕府のために戦い抜こう」と考えたわけではありません。かれが考えたのはもう一歩前に出た発想です。つまり、

  • 徳川幕府は制度的に消滅してしまった。それをいくら恋しがってもはじまらない。新しい世の中がはじまったのだ。
  • それならば、幕府消滅によって失業した徳川家の家臣団の今後の生活をどうするかを考えなければならない。
  • それを、当面自分といっしょに北海道にやってきた連中の問題として捉え、北海道を失業した徳川武士の新しい開発地帯としよう。
  • それには、武士が武器を捨てて農民になり、この土地にみあった農作物をつくることが大切だ。
  • それには、新政府の許可がいる。

そう考えた榎本は新政府にこの趣きを書いた嘆願書を出しました。しかし新政府は、「なにをいうか」と一笑に付し、拒絶しました。そのために武揚はやむをえず五稜郭にこもって、最後の抗戦をおこなったのです。このときの攻撃軍の参謀が黒田清隆でした。黒田は降伏して新政府の捕虜になった榎本から、「なぜ五稜郭にこもったのか」という目的をききました。そして、(榎本さんの考えには一理ある)と思いました。黒田清隆の札幌農学校創立の動機は、榎本武揚の、「徳川家臣団のための、生計を得るための新しい開拓地」という構想にヒントを得ているのです。黒田はそれを拡げて、「失業した徳川家臣団のためだけではなく、広く日本国民のための開拓地にしよう」と構想の幅を拡げたのです。
この黒田清隆やクラーク博士のポリシー(理念)を忠実に生かしたのが、二期生であった内村鑑三〈うちむら・かんぞう〉や新渡戸稲造〈にとべ・いなぞう〉です。内村鑑三は無教会主義のクリスチャンとして、思想活動をおこないました。新渡戸稲造の稲造という名は、祖父が大変に農業好きで、福島県北方の開拓をおこなった人物で、好きだった稲の字をそのまま孫につけものです。
内村鑑三は『代表的日本人』という本を書いて、「日本人の精神」を五人の人物によって表現しました。新渡戸稲造も「武士道」を重んじ、それを「日本人の美しい心」として世界に告げました。現在新渡戸稲造さんの子孫が、青森県の一角で理想的な村づくりをおこなっています。先日、この町に呼ばれて、新渡戸稲造の話をしました。
内村鑑三も新渡戸稲造も、ともに札幌農学校で学びましたが、クラーク博士はすでに去った後でした。しかしそのスピリット(精神)は色濃く校舎の中にみなぎっていましたので、ふたりはその精神をしっかりと受けとめたのです。そして黒田が希望したように、「北海道に残って、農業に従事するのではなく、日本各地で新しい指導者になる」というその指導者になったのです。ふたりとも、日本国内だけではなく国外にもその名をとどろかせました。
土の思想家たちは、大地を媒体につながっているので、たとえ、「自分が住んでいる限られた地域から発想する」という思想づくりをおこなったとしても、その考え方は土を伝わって各地に拡がっていきます。いってみれば、「個からはじまって、普遍に至る」という現象をそのままあらわすのです。つまり、「地域からスタートしても、その地域だけではなくどこにでも通用するような普遍性を持っている」ということなのです。言葉を変えればミクロからはじまって、マクロに至るということでしょう。喜多方市における「中江藤樹の研究」がずっとつづけられているというのも、滋賀県と福島県という距離を超えて、立体的に交流する強さを中江藤樹が持っているということです。ではその中江藤樹の強さとはいったいどういうことでしょうか。
それは、こじつけですが細井平洲先生の唱えた説に強く結びつくものがある気がします。(つづく)

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