平洲塾75「生涯を左右する教師の影響」

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ページ番号1004628  更新日 2023年2月20日

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生涯を左右する教師の影響

『米沢に於ける敬師の系譜』に寄せられた「恕」のつづきです。次は当時の京都大学名誉教授で文学博士だった矢野仁一〈やのじんいち〉先生の「序」です。当時のことで、前半の多くは大学紛争の名のもとにおこなわれていた学生たちの活動について述べられているので、その分は省略します。

「君はおそらくこの師弟愛物語を、その場、その時かぎりのエピソードとして片付けてしまうに忍びなかったゞろう。それは、いま米沢市東郊の山上、関根村羽黒堂〈はぐろどう〉内の"一字一涙碑〈いちじいちるいのひ〉"に象徴されている上杉鷹山公と細井平洲(紀徳民)先生との師弟愛物語とあまりにも酷似〈こくじ〉しているではないか。前後200余年の星霜〈せいそう〉を隔〈へだ〉てながら、前後相照応して、一事実であるごとく、ちょっと200余年の隔〈へだ〉てあることを忘れて感ぜられるゝほどであります。これはこの2つの物語(鷹山公と平洲先生・赤井先生と我妻先生)は二百余年の断絶を意味するものでなく、かえって敬師の系譜が二百余年連綿として継続していることを意味するものと思います。

平洲先生の、興譲館〈こうじょうかん〉創立当時自書として館内に掲げられたという学則は、朱子〈しゅし〉の『小学』に引用された『管子〈かんし〉』の弟子職の文で、その眼目とするところは敬師であります。明治末15年の長時期県立米沢中学校長として名校長とうたわれし松山亮校長はこれを訳解し、これこそは終古不変の真理で、鷹山公以来明治維新廃藩置県の時に至るまで、一藩教化の源泉をなしたと述べられておりますが、廃藩置県後の敬師の伝統は脉々として続いたからこそ、赤井先生と我妻〈わがつま〉博士の弟子愛、敬師の念のたまたまのめぐりに遭〈あ〉って触発されて、世にもうるわしき師弟愛物語となってあらわれたもので、わが郷土米沢の敬師の系譜中の一齣〈ひとこま〉として理解すべきものでありましょう。

これはわたくしが種村一郎君(当時の米沢信用金庫理事長)の意中を忖度〈そんたく。推しはかる〉して試みた解釈でありますが、おそらく間違いないと存じます。こういうように、赤井先生と我妻〈わがつま〉博士の師弟愛物語、鷹山公と平洲先生の師弟愛物語を、わが郷土敬師の系譜中の一齣〈ひとこま〉として捉〈とら〉えてこそ、これらの個々の物語は、わが郷土米沢の後起の青少年学徒をして感奮興起〈かんぷんこうき〉せしむることになりましょう。その跡にしたがい、その轍〈わだち。車のあと〉をふまんとして勇躍して起るものあることも期待できるでありましょう。鷹山公と平洲先生の遭遇〈そうぐう〉、赤井先生と我妻〈わがつま〉博士の遭遇〈そうぐう〉によって範を示されたる師弟愛、敬師の風は、かくしてわが郷土伝統の美風として、永く後世に継承することになりましょう。」

以上は、当時の京都大学名誉教授・文学博士・矢野仁一先生の「序」です。前にもお断りしましたが、大学紛争に触れた部分は割愛させていただきました。ただ、矢野先生は京都大学で紛争の最中に身をおいていただけあって、余計米沢における「敬師」の美風を、懐かしく思ったに違いありません。

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この「敬師の美風」は、必ずしも古い話ではありません。ぼく自身にも経験があります。

ぼくが小学校のころ校長先生のほかにおかれたポストの副校長に、柚木〈ゆき〉先生という方がおられました。副校長さんであるにもかかわらず決して威張ることはありません。ぼくのクラスを担当しておられました。柚木〈ゆき〉先生には面白いクセがあって、子どもたちが教場から去ってしまう前に、必ずひとりかふたり指名で子どもを残し、教場を掃除〈そうじ〉するのです。先生が箒〈ほうき〉を持って教室内を隅々まで掃〈は〉き、ゴミを集めると残した子どもに、「塵取〈ちりと〉りを持ってきなさい」と命じます。残された子どもは、急いで塵取〈ちりと〉りを持って先生のもとに駆けつけます。その塵取〈ちりと〉りの中に箒「ほうき」でゴミを掃〈は〉き寄せた先生は、ニッコリ笑って、「ご苦労さん」とおっしゃいます。妙な話ですが、ぼくたち子どもは、この「きょうはきみが残って、わたしの掃除を手伝いなさい」といわれることを、大変名誉に思っていたのです。みんな授業のおしまいごろになると、(柚木〈ゆき〉先生は、きょうはだれを指名するかな)と胸を躍らせて指名を待ちました。そして、自慢をするようですがぼくはよく柚木先生に指名されました。それはぼくの家の事情が複雑で、また親が父母ともに毎日汗水漬〈あせみず〉くになって働き、ぼくの面倒をみるヒマが十分にないことを知っておられたのでしょう。ですから柚木〈ゆき〉先生は、「休みの日にはうちにおいで」とよく誘ってくださいました。柚木〈ゆき〉先生のおうちにいっても、別に柚木〈ゆき〉先生がずっとぼくとつき合ってくださるわけではありません。先生は書斎にこもって始終書き物をなさいます。ただぼくには、「好きな本を選んで読みなさい」とおっしゃいます。先生の家には、武井武雄さんの『赤鬼青鬼』という連続マンガや、山本有三さんの『路傍〈ろぼう〉の石』などを収めた小国民文庫などがズラリと並んでいました。ぼくは先生の家にお伺して、これらの本をむさぼるように読みました。現在のぼくのいわば"教養"と名づけていい部分には、柚木〈ゆき〉先生の家で読みふけったこれらの本の影響がかなりあります。そしていまの職業を選んだのも、柚木先生の影響が大きいのです。つまり、「小学校教師の子どもたちに与える影響」という意味では、場合によっては「その人間の生涯を左右する」といってもいいほどの影響を与えます。ぼくが柚木先生から教えられたのは、「いつもだれかさんをよろこばせること」ということでした。

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『米沢における敬師の系譜』という本について、当時の名士の「序」をご紹介しました。では、そういう名士の「序」をいただいた肝心の米沢信用金庫理事長の種村一郎さんは、どういうきもちでこの本を出したのでしょうか。そこで次回は種村一郎さんの「刊行の言葉」を書きます。

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