平洲塾53「まなんだ人にまなぶ(上)」

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ページ番号1004651  更新日 2023年2月20日

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尾張藩主徳川宗睦〈むねちか〉の熱意によって、藩校明倫堂〈めいりんどう〉が完成し、平洲先生はその学館総裁になりました。平洲先生もみずから講義をおこないました。先生の方針として、「藩校における講義は、武士だけでなく城下町の町人や農民にもきかせて欲しい」と告げたので、これが守られました。藩校の前は、校舎に入りきれない人びとでいっぱいでした。そのために、この多くの人びとを当てこんで、いろいろな物売りも出てきました。藩校明倫堂は、「名古屋の城下町での賑やかな場所」のひとつになりました。
天明3年(1783)7月のことです。この年は、東北地方で大飢饉が起こっていました。米価が高騰し、青森・盛岡・仙台などの大都市では、住民の米を求める声が高まり、しかし供給量が少ないためについに米屋に対してうちこわしがおこなわれました。
これがどんどん南下し、関東地方も大騒ぎになりました。その噂は次々と名古屋の城下町にも入ってきました。
幸い、名古屋では宗睦の政治がいき届いていましたので、それほどの騒ぎはありませんでしたが、しかしよその都市で住民が大騒ぎをしている情報は次々と入ってきます。
平洲先生は心を痛めていました。所縁〈しょえん〉の深い米沢(山形県)の城下町ではどうだろうか、などと心配しました。
その日、突然遠雷〈えんらい〉のような響きがこの地方の山々に轟〈とどろ〉き渡りました。講義をきいていた連中はびっくりしました。みんな顔をみあわせ、「いったい、なにが起こったのだろう?」と不安な表情になりました。それが前触れで、毎日のように遠雷のような響きはつづき、さらに地震がきました。名古屋城をはじめ、町全体がガタガタと揺れます。それに、そのころはちょうど梅雨期で毎日のように激しい雨がつづいていました。城下町の人びとは、「この世の終わりだ」とか、「近くの庄内川が氾濫〈はんらん〉して、名古屋の町も流されてしまうのではないか」などという声がとび交いました。
お城の役人の調査で、遠雷と地震の理由がわかりました。それは信越地方で浅間山〈あさまやま〉が大爆発を起こしたというのです。尾張地方は、地震の影響だけですみましたが、関東地方はそうはいきませんでした。山から噴出した灰が雨のように降り、せっかく農民たちが苦労してつくりつつあった農作物を全滅させてしまいました。被害ははかりしれないといいます。そんな情報をきかされた尾張地方の住民たちは、やがて空の雲が切れて青空が出たのでホッとしました。しかし安心しているヒマはありません。それは案じたとおり、庄内川が増水し、いまにも堤を破らんばかりの勢いだったからです。岸辺に立つ人はだれもが、「これは、まもなく堤が切れて大洪水になる」と予想しました。そこで、お城が中心になって、「庄内川の防水工事をおこなう」ということになりました。働く人と、その人びとに払う賃金や防水のために使われる機材の費用が急遽求められました。しかし町の人びとの多くは、「実際に働きにいくのはイヤだ。労働のかわりにお金を出して勘弁してもらおう」という声が起こり、これが大勢を占めました。講義をつづける平洲先生は、「果してそんなことでいいのだろうか?」と眉を寄せていました。(つづく)

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