平洲塾45「平洲先生の孤独感処理」

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ページ番号1004659  更新日 2023年2月20日

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平洲先生の孤独感処理

前回まで3回にわたって、ぼくは「平洲先生への批判を考える」と題して、米沢藩の重役・莅戸善政〈のぞき・よしまさ〉の平洲先生に対する考え方を書きました。
実を言えば意外だったからです。
というのは、莅戸善政は家老の竹俣当綱〈たけのまた・まさつな〉とともに、上杉鷹山の改革を支えた二本柱の一本だったからです。竹俣当綱が失脚すると、莅戸善政もいっしょに職を辞〈や〉めます。それほど莅戸は竹俣を尊敬していたからです。竹俣当綱よりも莅戸善政のほうが学問があり、また考えもいき届き、分別もかなりありました。にもかかわらず、平洲先生に対してこういう批判をしたのはおそらく、自分の学力に自信があったからでしょう。そして好意的に考えれば、「米沢藩の改革は、新しい殿様である鷹山公を核にして、われわれ米沢藩の人間だけで推進したい」というような、いわば"民族資本"を中心にした改革遂行を考えていたとも受けとめられます。
はっきりいえば、「ヨソモノの世話にはなりたくない」ということです。しかし肝心の鷹山がなにかにつけて平洲先生を頼みにしているから、これは手が出せません。
「殿様、それは間違いです」とはいえないのです。
というのは、鷹山を通して指示命令として出される平洲先生の改革に対する考えは、すべて正しく、しかも米沢藩の現状にピタリピタリと当てはまっていたからです。
平洲先生は絵空事をいっていたわけではありません。あくまでも「米沢藩の現状に応じた対策」を、精神的な面から助言したのです。上杉鷹山は、それをすべて正しいと思いました。したがって、「平洲先生の助言をわたしは尊重する。わたしの指示命令は、たとえ平洲先生の助言から発していようと、完全にわたしの指示命令である。従え」という強い態度に出ました。これには背くことができません。竹俣も莅戸も、心の中では舌を鳴らしたかもしれません。しかしかれらは主人に対しては絶対的な忠誠心を持っています。まして、上杉鷹山が藩主になるまでのかれらの扱いは、決して日の当たるものではありませんでした。むしろ冷遇されていたと思います。莅戸も竹俣も米沢藩の古い重役陣からみれば、「トラブルばかり起こす厄介者だ」と考えられていたからです。しかし、心の隅に芽を出した平洲先生への不満は、やはり消すことができずに莅戸善政も正直な声となって外に出ました。
竹俣当綱は、やがて改革がうまく軌道に乗ると各郷村をまわっては、実力者の家に泊まりこんで酒を飲み、「改革がうまくいっているのは、すべておれの手柄だ。若い殿様にそんな力があるはずがない」と途方もない増長マンに達します。やがてこのことが鷹山にきこえて竹俣は罷免〈ひめん〉されます。
しかしこういう一種"魔がさした"というきもちは、だれもが持つものかもしれません。人間の心の中には、ホトケと悪魔が住んでいます。そのどちらかに傾くことによって、人間の人柄が決定されます。このころの竹俣は、ホトケよりも悪魔の心が前に出て、こんな自慢をしたのでしょう。のちに竹俣は反省し、「一時の迷いでした」と鷹山に謝罪します。
莅戸善政が竹俣当綱とまったくおなじだったとは思いません。しかしかれは学者であり、分別もあります。したがって、改革が軌道に乗って周囲から賞賛の声が起こるようになると、やはり竹俣善政とおなじように、「改革がトントン拍子にうまくいっているのは、自分の学力や考えも大きく影響している。もともと、この改革はわれわれが問題児視されて、江戸にトバされていたときも心の中に温めてきたものだ。別に、細井先生がこられたからといって、はじめて芽を出したわけではない」というようなきもちも湧いたにちがいありません。一種の思い上がりなのですが、状況が好転して仕事がうまく運ぶと、人間は得てしてこういう増長マンになるのです。
竹俣当綱の発言は現在ぼくも眼にできるような文書として残っているのですから、おそらく、当時は米沢城内に広まっていたにちがいありません。
これを、現場にいた平洲先生はどう受けとめたでしょうか。
平洲先生はすぐれた人物だと思います。しかしこういう批判に対して、心が平静〈へいせい〉であったとは思いません。不快に感じたと思います。しかし平洲先生は立派な人格者です。おそらく、「そういう批判を受けないように、慎み深く生きよう」と思われたにちがいありません。
批判を受けないように生きるというのはどういうことか、これには、

  • 竹俣当綱を代表とする批判層の発言を封ずるために、殿様の鷹山公から注意してもらう。
  • 逆に、平洲先生が表へ出ることを慎み、できれば米沢藩の改革から身を引く。

などといういろいろな手があったと思います。しかし平洲先生は現場からは絶対に退きませんでした。それは、「自分が仕えているのは鷹山公であって、竹俣さんや莅戸さんではない」という信念があったからです。つまり平洲先生は、上杉鷹山個人のブレーンであって、莅戸や竹俣のブレーンではないということです。莅戸や竹俣は、上杉鷹山の家臣です。したがって藩主である鷹山の指示命令に従って動けばよいのであって、それに対し平洲先生も脇から余計なことをいったことは一度もありません。
しかし、だからといってそう思えば、感じた不快感や孤独感がそのまま解消されるということではありません。これは割り切れない思いで平洲先生に残ります。夜ひとりになっていろいろ思いをめぐらすときに、必ずこの孤独感との闘いがあったと思います。しかし平洲先生は耐えました。
ぼくは、学者を代表とするこういう"ブレーン"の役割を負う人には、必ず平洲先生が味わった孤独感が伴うと思います。したがって、すぐれたブレーンというのは、こういうときに味わう孤独感をいかに自分で処理するか、ということが大切です。
平洲先生はそれを成し遂げました。
米沢にいたときの平洲先生は、決して順風満帆〈じゅんぷうまんぱん〉で左団扇〈ひだりうちわ〉でくらしていたわけではありません。日々緊張の連続でした。この孤独感の処理には、あれほど信頼している上杉鷹山にも手が出せません。クールないい方をすれば、「平洲先生の孤独感は、平洲先生自身が処理しなければならない」ということなのです。
おそらく平洲先生の頭の中には、こういう不快感を浄化するような装置があったにちがいありません。
ちょうど、川底の石の群れのようなものでしょう。石の群れは川の自浄装置です。上流から流れてくる汚れた水も、この自浄装置によって浄化され、汚染度を下げて透き通った水になり、下流に流れていきます。これと同じ石の群れが、平洲先生の頭の底にありました。
なぜそうするのか。平洲先生はおそらくこう答えるでしょう。
「それは、民〈たみ〉のためです。民が幸福になるためには、わたし自身がこんなことでクヨクヨしたり、落ちこんだりしているわけにはいかないのです。そんなことをしていれば、鷹山公への助言の迫力がなくなります。助言は常に透明でなければなりません。それには、わたし自身が透明な精神を持ちつづけることが大切なのです。ひとつものごとを成す場合には、当然批判が起こります。竹俣さんのわたしへの批判は、そのひとつです。しかしだからといって、その批判に対していちいちいい訳をしたり、弁明をしたりしているヒマはありません。わたしがいま願っているのは、とくかく鷹山公を通じて、米沢藩の政治が民のためのゆたかで温かいものになることだけです」そういう精神力に、ぼくは改めて敬意を表するのです。

本のご紹介

細井平洲「小語(しょうご)」注釈
平成7年発行 A5判 345頁 1冊 1,120円(別途送料1冊 350円 650g)
「小語」とは、細井平洲自身が見聞きした君主から名もない人物まで、70人余の逸話が漢文で書きとめられた書物。小野重伃(おのしげよ)氏の研究により完成した、平洲研究の原典となる注釈本。

写真:細井平洲「小語」注釈本

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