平洲塾51「名君・徳川宗睦(上)」

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ページ番号1004653  更新日 2023年2月20日

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名君・徳川宗睦〈むねちか〉(上)

細井平洲先生を、「尾張藩の侍講〈じこう〉」として採用した藩主・徳川宗睦〈むねちか〉は、尾張藩9代目の藩主で、"明公〈めいこう〉"と呼ばれた名君です。学問好きでした。はじめは謡曲が好きで、12歳ぐらいまで金春〈こんぱる〉流の舞を習っていました。
しかし、ある日、「舞は国の政治にはなんの役にも立たない。尾張は大国だ。藩主である自分が遊芸に日を送っていたのでは、住民に対して申し訳ない。やはり、武士として文武の道を励むべきだ」と突然考えを変え、乗馬や砲術の演練に励むようになりました。同時に、学問を学び直そうと志しました。なかなか気分の大きい人物で、名古屋城に勤める学者や、あるいは学問好きの武士たちを時々からかいました。
「おまえたちは、論語読みの論語知らずだといっているが、そういっているおまえたちが論語知らずなのだ」などと平然といいました。学者たちは恐縮しました。
宗睦のみたところ、学者も、またその学者に学ぶ名古屋城内のいわゆるオピニオンリーダー(有識者)たちも、ただ孔子や孟子の残した文章を解釈するたけで、それをひとつも実際に役立てようとする努力を欠いていました。早くいえば、「学んだ学問を、政治に活かす」という努力を怠っていたのです。宗睦は、(これではダメだ)と思っていました。だから常に、「学問をそのまま実際の社会生活に活かしているような人物はいないのか?」と物色していました。そして、細井平洲に目をつけたのです。
宗睦が藩主になる2代前の宗春〈むねはる〉は、当時、"享保の改革"を展開中だった8代将軍徳川吉宗の政策に反発し、「倹約一辺倒では、世の中の景気はよくならない。景気をよくするためには、地域の責任者がまずゼイタクなくらしをして、どんどん金を川上から川下へ流すべきである」という考えを打ち出しました。そのために、尾張藩はじまって以来はじめての公費の積極的な支出をはかりました。また、町のくらしをゆたかにするために、祭りや行事などを全部復活しました。これに宗春もどんどん参加しました。そのため、江戸のくらしが、吉宗の倹約令によってかなりきびしかったのに比べ、名古屋のほうは大いに賑やかになりました。江戸の芝居小屋・遊郭・いろいろな売店などが、かなり江戸から名古屋へ流れました。
「江戸がダメなら名古屋があるさ」といわれ、名古屋も藩がはじまって以来の賑やかな都になりました。現在でも市民の中には、「名古屋の繁栄の元は、7代目藩主徳川宗春にある」という人がいるほどです。
宗睦はその後をうけた宗勝〈むねかつ〉の方針をかなり引き継いでいます。8代目の宗勝は、7代目宗春の政策をほとんど否定しました。
「藩主はやはり質素倹約を旨とし、藩民の模範にならなければダメだ」という姿勢を貫いたのです。宗睦も基本的にはこれを引き継ぎました。しかし宗睦の勤倹節約は、とくにケチるということではありません。積極的に藩内の農業振興などをはかり、同時に「学問の奨励」をおこないました。しかし、宗睦自身の生活はかなりきびしく、食事は一汁一菜を通しました。夜中の非常用として、飯と白味噌の丸めたものをつくって枕元におかせました。よく筆を使いましたが、硯も小姓が誤って落としたものを、欠けたまま使っていたといいます。(つづく)

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