平洲塾43「平洲先生への批判を考える(2)」

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ページ番号1004661  更新日 2023年2月20日

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平洲先生への批判を考える(2)

あけましておめでとうございます。先回紹介した莅戸善政〈のぞき・よしまさ〉の平洲先生について、それはタテマエでなくホンネなのかもしれない、ということについて、ぼくなりの詮索によって書いてみます。
上杉鷹山の改革を支えた重役のひとり莅戸善政にもやはり、「上杉家の武士である」という誇りと自身がありました。そして、莅戸たちは細井平洲先生が上杉鷹山に対して「改革の考え方ややり方」を教える前から、藩の改革を考えていました。その改革の方向が、「藩政を誤らせている家老」を暗殺するというような過激な手段に出たために、米沢本国から江戸藩邸へ追放されてしまったのです。
しかし、上杉鷹山はこの連中を登用しました。したがって莅戸たちにすれば、「新しい藩主はわれわれを認めてくれた。ということは、われわれがおこなおうとした悪臣暗殺は正当なものだということになる」という自信を持ったのかもしれません。
ここに上杉鷹山と莅戸たち家臣団の考えの亀裂があります。したがって莅戸たちは、上杉鷹山が細井平洲先生の教えに従って、その改革案を展開しようとしても、心の一部には、「改革は、鷹山公が藩主におなりになる前からわれわれが推進していた」という考えがありました。この自信ゆえに、「上杉鷹山公は、われわれの主君だからそ指示に従うが、細井平洲先生は別だ」という思いがあったように思えます。
もちろん、平洲先生のいうことは正しいことばかりです。これには莅戸たちも文句はいえません。とくに鷹山が、「米沢城に身をおく殿様と役人は、すべて民〈たみ〉の父母にならなければならない」という論はそのとおりなのです。しかし竹俣たちはおそらく、つぎのような考えをしたのではないでしょうか。

  • われわれは、鷹山公の家臣なのだから鷹山公の指示命令には忠実に従う。
  • その鷹山公の指示命令は、ほとんど細井平洲先生をブレーンにして考えられたものだ。
  • しかし、われわれにとって大切なのは鷹山公という主人であって、平洲先生というブレーンではない。
  • ブレーンというのは文字どおり頭脳であって、細井平洲先生は鷹山公の頭脳の一部だ。
  • そのことはとりもなおさず、鷹山公自身の内部における問題であって、一般の家臣には関係ない。
  • したがって、われわれの忠誠心はあくまでも鷹山公ひとりに絞るべきだ。

こんな考えがあったのではないかと思います。これははっきりいえば、「政治を扱うのはわれわれ武士だ。学者は、意見は述べても実務にはタッチしない。したがって平洲先生の存在は、鷹山公という主君の頭の中にだけあればいい」という考えです。はっきりいえば、莅戸の考えの底にあるのは、「鷹山公という主君と平洲先生という学師の存在は別だ」というものであり、「自分たちにとっては別な存在だ」というものです。というよりもむしろ、「平洲先生は、鷹山公の頭の中に溶けこんでいるのだから、存在しないのにも等しい」ということではなかったかと思います。厄介なことに、莅戸善政自身も学者でした。かれは、「太華〈たいが〉」という号を持っています。太華というのは、中国の五大岳のひとつの有名な山です。そういう山を自分の号にするくらいですから、莅戸の学問も相当に深いものでした。また字も上手でした。かれのところにも米沢城の武士たちがたくさん学問を習いに来ました。したがって莅戸善政にすれば細井平洲先生とは、《学者対学者の関係》になります。
それに鷹山の改革がトントン拍子に軌道に乗りました。いきおい、それを推進する竹俣当綱と莅戸善政の評判は高くなります。莅戸自身も鷹山によってどんどん登用され、最初百八十石くらいの中級武士だったのが、やがては家老級になり二千石の給与を与えられるようになりました。
竹俣当綱は、おなじような扱いを受けてしだいに自身の鼻が高くなり失脚します。かれは村々を歩いては、「この改革の指揮はわたしがとっているのだ」と吹きまくり、地主の家で朝寝朝酒を食らうようにまでなっていきました。地主が心配して、「竹俣様、もう夜が明けましたよ。陽がどんどん昇っております。早くお城へお帰りください」といっても、竹俣はわざと暗くしてある部屋の中をみまわし、隅に灯火が灯っているのをみました。そして、「あの灯火が消えるまでは夜だ」といったといいます。
これが原因となって、竹俣はクビになりました。しかしその竹俣を莅戸は心から尊敬していました。莅戸もいっしょに辞めてしまいます。惜しんだ鷹山がやがて莅戸を召し出し、「竹俣のかわりに、おまえが改革の指揮をとれ」といわれて、家老の職に上がったのでした。だから竹俣が失脚の原因となった増長のきもちが、莅戸の胸に湧かなかったとは限りません。やはり、(この改革の実行者はわれわれだ)という自信がなかったとはいえないのです。
それが結局は、「改革の精神的よりどころ」をつくった細井平洲先生をないがしろにするようなきもちに発展しなかったとはいえません。
もっと勘繰ればまだ、原因は考えられますが、それは次回に紹介しましょう。(つづく)

本のご紹介

細井平洲「小語(しょうご)」注釈
平成7年発行 A5判 345頁 1冊 1,120円(別途送料1冊 350円 650g)
「小語」とは、細井平洲自身が見聞きした君主から名もない人物まで、70人余の逸話が漢文で書きとめられた書物。小野重伃(おのしげよ)氏の研究により完成した、平洲研究の原典となる注釈本。

写真:細井平洲「小語」注釈本

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