平洲塾48「尾張藩主に重用される(下)」

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ページ番号1004656  更新日 2023年2月20日

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尾張藩主に重用される(下)

「なぜ愛知県や名古屋市ではあまり積極的に平洲先生の顕彰がおこなわれないのだろうか」というのが前回ご紹介した私の疑問ですが、それについて考えられる理由がいくつかあります。

平洲先生が、尾張藩で徳川宗睦に登用されるようになったのは、安永9年(1780)ごろが最初です。このころ、平洲先生はすでに53歳になっていました。尾張藩が平洲先生を登用したきっかけは、まず世子〈せいし〉(時期藩主候補)治行〈はるゆき〉の待講〈じこう〉に招いたことです。このとき平洲先生は『論語』の講義をおこないました。与えられた給与は20人扶持〈ぶち〉でした。一人扶持というのは、1日に米5合を支給されることです。やがて藩主の宗睦にも講義を行なうようになりました。天明元年(1781)に宗睦は月6回という約束で、平洲先生から講義を受けています。そして天明3年になって、創建された藩校「明倫堂」の総裁に正式に招かれたのです。

平洲先生が上杉鷹山の師になったのは明和元年(1764)、鷹山が藩主になったのが明和4年(1767)のことで、明和8年(1771)には鷹山にこわれてはじめて米沢に行きました。このとき先生は44歳でした。以後、江戸と米沢の間を往復しながら、鷹山の改革の根幹になる、とくに理念の設定やその普及(教育)に努力しました。尾張藩が平洲先生を招いたのは、この仕事(米沢藩の指導)をはじめてから10年以上経ってからです。その間、尾張藩はじっと平洲先生の成果を見守っていたのでしょうか。

ほかに考えられることがあります。それは、尾張藩の「御三家の大藩主義」です。

御三家というのは、「徳川宗家〈そうけ〉に相続人がないときは、養子に入って将軍職を継ぐことができる」という、いわば"将軍予備軍"です。したがって、ほかの大名たちとは格がまったく違います。この意識が強かったのでしょうか。それは藩主だけではなく、家臣の間にも浸透していて、「尾張徳川家は御三家の筆頭である」というプライドが常にあったのでしょうか。

米沢藩上杉家は、15万石の中級の大名です。そして江戸時代の大名を大きく区分する「譜代と外様」の基準で分ければ、外様大名です。譜代というのは、三河国(愛知県東部)以来、徳川家康に忠誠を尽くしてきた武士の家が母体になっています。外様というのは、関ヶ原合戦後に徳川家康に忠節を尽くした武士の家で、それまでは織田信長や豊臣秀吉の家臣でした。家康はこういう連中を信用しませんでした。ですから、

  • 徳川幕府の要職はすべて譜代で構成する。
  • 外様大名は、どんな役にもつけない。

という方針を立て、幕末までこの方針は守られていました。いまでいえば、譜代は万年与党であり外様は万年野党だったということです。米沢藩上杉家は、外様でした。しかも、関ヶ原合戦のときは徳川家康に敵対して石田三成の味方をしました。当主は上杉景勝〈かげかつ〉でしたが、その参謀としての直江兼続〈なおえかねつぐ〉の意見によって、上杉家は石田に味方したといわれます。

したがって尾張徳川家からみれば、米沢藩上杉家は「神君家康公に敵対した大名家だ」というみかたがあったと思います。しかも15万石という収入規模で、それほど大藩ではありません。このいわば、「大名家としての家格の差」がひとつあったのではないでしょうか。

それともうひとつは、平洲先生には申し訳ないのですが、平洲先生の信条である、

  • 難しいことをやさしく語る。
  • 武士だけでなく、あらゆる人びとに自分の話をきいてもらう。

という一種の庶民性(大衆性)が、あるいは誇り高い尾張藩の武士たちのプライドに背〈そむ〉く面があったのでしょうか。現在でも得てして、この庶民性や大衆性というのは必ずしも高く評価はされません。その内容がほんとうに理解されるまでは、まずバカにされます。蔑〈さげす〉まれます。つまり、「程度が低いもの」という評価をされるのです。わかりやすい例でいえば、たとえば音楽界において「クラシックとポピュラー」があり、文学の世界において「純文学と大衆小説」というような区分があります。

「そんな区分はない。あるのは、よいものか悪いものかの別だけだ」と小説の世界で声をあげたのが、山本周五郎さんでした。山本周五郎さんは、「純文学と大衆小説の区別などない。よい小説と悪い小説の区分があるだけだ。そしてよい小説というのは、人を感動させる小説だ」といい切りました。ぼくが身をおいている歴史小説の分野は、かつて大衆小説のジャンルに入りました。したがって、純文学からみればやはりジロリと一段下にみられる境遇にありました。山本周五郎さんのこの言葉が、どれほど若いころぼくを励ましてくれたかわかりません。ぼくも正直にいって、「小説にはよい小説と悪い小説があるだけだ。純文学とか大衆小説とかの区分はおかしい」と考えているひとりです。

しかし、こういう考えがいき渡りはじめたのは必ずしもそんな古い時代ではありません。ぼく自身が自分の生涯においてそういう経験をかなり苦〈にが〉く味わってきたのですから、意識が変わってきたのはつい最近だといっていいでしょう。現代でさえそうなのですから、身分制や意識面における差別が普及していた江戸時代に、平洲先生が「学者としての位置づけ・格づけ・評価」において、高踏的な学者たちから、どうみられていたかは一目瞭然です。

改革が直面する壁が3つあるといいます。上杉鷹山がとくにそのことを主張しました。3つの壁というのは、

  • モノの壁(物理的な壁)
  • しくみの壁(制度的な壁)
  • こころの壁(意識の壁)

のことです。

しかし、ほかのふたつの壁に比べてまずぶち壊〈こわ〉しにくいのが「こころの壁」です。つまり、人間社会には「固定観念や先入観」というものがあって、これがしばしば改革の妨げになります。平洲先生が当初から尾張藩で登用されなかった理由のひとつに、ぼくは尾張藩の学者に対する先入観や固定観念があったと思います。つまり平洲先生を、「芸能人といっしょになって自分の学説を説くのは、低俗だ」と考える学者や武士がいたのではないでしょうか。

「学者とは、難しいことを説く存在だ」というようなみかたをする連中がたくさんいたのだと思います。この、先入観と固定観念の壁が、なかなか平洲先生を尾張藩で正式に登用させなかったのではないでしょうか。
そういう意味で考えれば、徳川宗睦の、新設の藩校「明倫館」への総裁任命と、教育方針を、「武士の師弟だけでなく、農工商三民にも講義して欲しい」としたことは、大英断です。それだけでも宗睦はやはり"名君"といってよいでしょう。

次回からしばらく、「尾張藩と平洲先生」という考えで、お話を書かせていただきます。

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