平洲塾52「名君・徳川宗睦(下)」

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1004652  更新日 2023年2月20日

印刷大きな文字で印刷

名君・徳川宗睦〈むねちか〉(下)

細井平洲を迎えた尾張藩9代藩主徳川宗睦(むねちか)は、まず名古屋城内で講義をおこなわせ、自分が真っ先にそれをききました。講義が終わると、平洲が去った後いっしょに聞いていた武士たちに、「細井平洲先生というのはすごいな。ほんとうに学識が深いし、また講義内容がスラスラ頭の中に入る。しかもそれがきょうからの尾張藩の政治に役立つ」と甚だ満足そうに語りました。
このころ尾張藩には、先代宗勝のつくった「幅下堀留学問所〈はばしたほりどめがくもんしょ〉」というのがありました。宗睦はこれを改革したいと考えていました。それは、「藩の学問所では、武士だけではなく城下町の農民や町民まで学べるようなものにしたい」と思っていたからです。そしてそのことを細井平洲先生に任せようと考えました。宗睦はすでに平洲が米沢藩上杉鷹山に頼まれて、藩校をつくり、その藩校では武士以外の農工商三民も自由に学べる学校だ、ということをきいていたからです。
「平洲先生、米沢藩の学校のようなものをつくってください」宗睦は率直に頼みました。平洲は承知しました。
天明3年(1783)に、この学校が完成しました。「明倫堂〈めいりんどう〉」と名づけられました。平洲は宗睦に命ぜられ、新しい学館の総裁に任命されました。宗睦の方針どおり、平洲はオープンと同時にこの明倫堂における講義は、武士以外の一般の人びとにも公開しました。すでに平洲先生の噂は高いものでした。そのため、「細井平洲先生が、尾張藩の新しい学校明倫堂で講義をなさる」という噂がながれると、たちまち明倫堂の前は黒山の人だかりになりました。中にはいれる者は幸運でした。はいれない者は外でひしめきました。そのためちゃっかりとした商人がいて、ここに台をおいていろいろな飲食品を売りはじめました。講義用の本を売る者もいました。当時名古屋の城下町で歌われた狂歌があります。
「売れるものは、古文孝経〈こぶんこうきょう〉・水口屋〈みなくちや〉・熊胆丸〈ゆうたんがん〉に小麦饅頭〈まんじゅう〉」あるいは、「あたるものは、水野権平〈みずの・ごんべえ〉(尾張藩の家老)・富十郎〈とみじゅうろう〉(歌舞伎役者)・学館総裁(平洲先生のこと)・ふぐ汁にすし」などといわれました。どっちの狂歌にも、平洲先生のことが入っています。それほど平洲先生の講義はみんなが待ちこがれたものであり、同時にそれをきいた後感動に、拳〈こぶし〉で涙を拭うようなものでした。
「明倫堂の前に集まる人びとを当てこんで、大いに儲けてやろう」と考えた魚屋など、自分が魚を売ることも忘れて、明倫堂からきこえてくる講義に耳を傾け、しまいには感動して商売のことなどすっかり忘れてしまったといいます。それほど平洲先生の講義には人気がありました。これは、平洲先生が若かったころに江戸両国橋のたもとで行なった大道講釈以来のものでした。(了)

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 平洲記念館
〒476-0003 愛知県東海市荒尾町蜂ケ尻67番地
電話番号:052-604-4141
ファクス番号:052-604-4141
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。