平洲塾47「尾張藩主に重用される(上)」

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ページ番号1004657  更新日 2023年2月20日

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尾張藩主に重用される(上)

ぼくが細井平洲先生のことに深くかかわりを持つようになったのは、ほぼ30年前に山形新聞に『上杉鷹山』を連載したときからです。鷹山の師として、その"愛民"の思想に基づく藩政改革の土台を示したのが、平洲先生でした。とくに、鷹山への教えがまとめられた『嚶鳴館遺草〈おうめいかんいそう〉』の存在を、そのころはまだ知りませんでした。その後、東海市長さんの熱心な呼びかけに応じて、平洲記念館の名誉館長などを引き受けるようになりましたが、東海市がここまで平洲先生を敬い、大切にいろいろな顕彰事業をおこなっておられることにおどろきました。

平洲先生の顕彰会の会長さんは、蟹江嘉信〈かにえ・よしのぶ〉さんという方で、"カゴメ"の名で数々の飲料品を提供されておられる会社の前社長さんです。国内だけでなく国際的にもよく知られている有徳の人物で、宗教界でもいろいろな実績を残されています。蟹江さんの紹介で、ぼくはいま『法然』さんの小説を書いていますが、京都のお寺関係にもいろいろな影響を持っておられます。

とくに、東海市長は歴代、平洲先生の顕彰に熱心で、地方自治体の仕事として、ほかにあまり例がないでしょう。

なぜ、今回こんなことを書きはじめたかといえば、ぼくは平洲先生にかかわりを持つようになってからずっと不思議に思っていることがひとつあるからです。

それは平洲先生は、米沢藩上杉鷹山の師としてだけでなく、いく人かの大名の師でした。そしてそれぞれの藩政改革の指導をおこないます。いまの愛知県は、古代日本の律令に基づく尾張国〈おわりのくに〉と三河国〈みかわのくに〉を合体したものです。江戸時代は、尾張国を管理しているのは一藩でした。尾張藩です。尾張藩主は徳川御三家の筆頭で、徳川家康の9男義直〈よしなお〉が初代の藩主になりました。義直は家康から、天下普請〈てんかぶしん〉といわれた名古屋城をもらいました。この名古屋城を義直は、「蓬左城〈ほうさじょう〉」と名づけました。意味は「蓬莱宮〈ほうらいきゅう〉の左側にある城」ということです。蓬莱宮というのは熱田神宮〈あつたじんぐう〉のことです。蓬莱思想は、古代中国から伝わってきたもので、一種のユートピア思想といっていいでしょう。人間が、なんの心配もなく不老不死の境遇を楽しめるという考えです。したがって義直がこういう別名を名古屋城につけたのは、「父家康から頂戴した尾張国を、ユートピアにしたい」という政治理念を持っていたことはあきからです。いま、名古屋市では開城400年記念といって、とくに「名古屋城の本丸御殿の復元」に努力しています。ぼくも2、3回ばかり、市その他からこの記念事業の一環として講演を頼まれました。

それはそれでいいのですが、ぼくが不思議に思ったということは、「なぜ、尾張藩の流れである愛知県や名古屋市が、もっと平洲先生を顕彰しないのだろうか」ということです。平洲先生が尾張藩とかかわりがなかったわけではありません。天明3年(1783)に、尾張藩9代藩主徳川宗睦〈むねちか〉の主導で、藩校「明倫堂〈めいりんどう〉」が創立されました。藩校らしい学校はすでにあったのですが、はっきり「明倫堂」と銘打って、学問の普及を大々的におこなったのはこのときがはじめてです。そして、初代の明倫堂総裁に招かれたのが平洲先生だったのです。徳川宗睦は"名君"といわれた大名です。この明倫堂を創設したときも、「明倫堂の講義は、武士の師弟だけではなく、農工商三民にも開放する」と宣言しました。武士だけでなく一般庶民にも学問を教えるという意味では、そのころ、「そういう教育ができるのは、細井平洲先生以外ない」という噂〈うわさ〉が高かったのだと思います。

平洲先生の学問指導が、「難しいことをやさしく説く。庶民にもわかるように教える」ということは、このHPでも何度も書きました。

そもそも、米沢藩主上杉鷹山の師になったきっかけが、江戸領国橋のたもとで平洲先生が、芸能人たちといっしょに自分の説をわかりやすく説いていたことが発端です。このとき、聴衆たちは平洲先生の講義が終わると、みんな拳〈こぶし〉を眼にあてて泣きました。おなじことが明倫堂でも起こりました。面白いのは、魚市場の連中がききにきていて、荷物を放り出したまま先生の話にきき入り、終ったときにはやはりみんなが拳を眼にあてて泣いていたといわれます。

藩主徳川宗睦は学問の奨励だけでなく、藩政改革も積極的におこないました。とくに、「農民の生活とか藩財政をゆたかにするためには、コメの増産をはからなければならない。そのためには新田開発が必要であり、灌漑〈かんがい〉用水の敷設も大切だ」と告げて、水源としての庄内川の改修を大規模におこないました。このとき平洲先生は門人たちに、「藩がおこなう事業に、明倫堂の学生も積極的に参加しよう」といって、大勢の門人をひきいて川の改修工事に従事しています。

「学んだことは実践しなければダメだ」という実学を重んじたためです。藩があげて改革事業に努力しているときに、学校だからといって藩の動きとは無縁にただ教場で教科書を広げていればいい、というような教育方法を平洲先生はとりませんでした。

「学んだことを実践するのには、まず体験が大切だ」ということで、門人たちを積極的に川の改修工事に参加させたのです。したがって平洲先生は、尾張藩にとっては藩民の精神指導と同時に、実務面においてもいろいろと功績を上げた人です。

「それが、なぜあまり積極的に平洲先生の顕彰がおこなわれないのだろうか」ということが、ずっとぼくの頭のなかにある疑問でした。

(次回につづく)

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