平洲塾49「尾張藩の伝統(上)」

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ページ番号1004655  更新日 2023年2月20日

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尾張藩の伝統(上) 初代藩主徳川義直(よしなお)と平洲先生の思い

細井平洲先生を招いた尾張藩は、「徳川御三家」と呼ばれていました。徳川家康の9男義直〈よしなお〉が初代の藩主です。しかしこのころの義直はまだ少年でした。家康が尾張に城を構えたのには、いろいろな意味があると思います。

義直が尾張藩主を命ぜられたのは慶長12年(1607)のことです。このとき義直の拠点は清洲城でした。しかし清洲城では尾張一国を統治することに不便なので、家康は名古屋に新しく城を築きました。このときの築城工事は「天下普請」といわれて、主に西南地方の諸大名にその負担を課しました。加藤清正ほかの大名たちは、いまでいう"アゴアシ"自分持ちで、この工事に夢中になりました。いまも名古屋城跡の石垣には、いろいろなマークが残されています。これは各大名が、「この石垣は、わが家が負担いたしました」ということを徳川家に示した忠誠心のあらわれです。

いまの愛知県は、律令制による国制でいう尾張国と三河国が合体したものですが、三河国には徳川時代かなり多くの大名家が存在しました。しかし尾張家のほうは、徳川家だけです。そのために、尾張一国を統治するためにもっと便利なところはないか、ということで名古屋城が造られたのです。義直はこの名古屋城を「蓬左城〈ほうさじょう〉」と名づけました。その意味は、「蓬莱宮〈ほうらいきゅう〉の左側にある城」ということです。蓬莱宮というのは熱田神宮〈あつたじんぐう〉のことです。義直は少年のときから学問が好きで、とくに心学〈しんがく〉と朱子学〈しゅしがく〉を学びました。おそらく学問の深い義直は、自分の教養と熱田神宮とを結びつけたのでしょう。熱田神宮はいうまでもなく伊勢神宮とおなじように、もともとは「お米の神様」です。古代農民と深いかかわりを持っています。つまり、「この地方で、お米がたくさんとれますように」という農民の願いを叶〈かな〉えてくれ神様を祀〈まつ〉っていたのです。

江戸時代の主税は年貢と呼ばれるお米でしたから、お米がたくさんとれるということはその国の財政がゆたかになるということです。しかし義直は単に「尾張国でお米がたくさんとれればいい」と考えたわけではありません。かれは王道政治をめざす理想家でした。ですから、「尾張国を、住民がゆたかで平和にくらせるような理想郷にしたい」という願いを持っていました。この考え方は、細井平洲先生の理念と共通します。平洲先生も、「人が住む国は、平和でゆたかで安心して家族がくらせるような地域でありたい」と願っていました。ですからこの尾張国に生まれた平洲先生は生まれたときから、「そういう理想郷に生まれてよかった」という思いがあったと思います。そこで、次回は、このへんを核にしながら「尾張国を統治した尾張徳川家の特性」を少し考えてみたいと思います。尾張国に生まれずに、江戸に生まれたぼくが考える勝手な思いですから、当然「そんなバカバカしいことはない」とお怒りになる方がおられるかもしれません。でも、ぼくはぼくなりに「尾張国への思い」をずっと持ちつづけているのです。
「ああ、尾張にはそんなバカな考えを持たせるような特性があったのか?」と思ってくだされば幸いです。では、次回を楽しみにお待ち下さい。(つづく)

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