平洲塾17「味のある友情」

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ページ番号1004691  更新日 2023年2月20日

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味のある友情

この話のテキストも細井平洲先生の『小語』です。でも、いつもの例によってアダプテーション(脚色)してあります。

細井平洲先生は、若いころ長崎に留学しました。その時代の知り合いのことのようです。長崎で先生は相庭廷俊〈あいば・ていしゅん〉という人物と知り合いになりました。相庭さんはあざ名を用章〈ようしょう〉といったそうです。なかなか武勇に富んだ人で、学問にもすぐれていました。上原という人について槍〈やり〉を学びました。

やがて、相庭さんは江戸に出てきて、どこかの大名に仕えたいと就職運動をはじめました。このころのしきたりとして、就職希望者は身なりをきちんとしなければいけなかったようです。髪の手入れもせず、ぼうぼうと無精髭〈ぶしょうひげ〉を生やしたままだと嫌われました。とくに、衣類についてはやかましかったようです。そこで相庭さんは、立派な上下〈かみしも〉一揃いを用意しました。

すると、長崎で槍の先生をつとめてくれた上原さんも江戸にやってきました。
「どうしました」ときくと、「事件に巻きこまれて勤め先をクビになってしまった」と笑いながら応じました。上原さんも男らしい人で、そういう境遇に応じたからといって決して不平をいったり、ブツブツ文句をいうような人ではありません。
「どうなさるのですか?」ときくと、上原さんは、「就職運動をしたいのだ」と答えました。相庭さんは、「どちらをご希望になるのですか」とききました。上原さんは、「どちらといっても決まっている。忠臣は二君に仕えずという。だからわたしは前の主人に仕えたい。しかし国元ではまだしこりが残っているので、江戸の藩邸にお願いしようと思っているのだ」と答えました。

相庭さんがみたところ、上原さんは浪人したおかげでくらしが貧しいらしく、着ている衣類もみすぼらしく汚れ、あちこち破れていました。相庭さんも常識家ですから、(こういう粗末な身なりでは、たとえ前に勤めたことがあるといってもなかなか再雇用されないのではなかろうか)と感じました。さらに悪いことに、上原さんが同行してきた奥さんとこどもが病気で、ほとんどお金もないようです。

おそらくこの状態で江戸の藩邸をたずねていっても、門前払いを食うにちがいありません。相庭さんは考えました。それは、(自分の就職よりも、上原さんを再就職させることのほうが先だ)ということです。そこで相庭さんが上原さんにこんなことをいいました。
「お気を悪くされると困りますが、着ているものを交換しませんか」
「なんだと?」
上原さんは眼をむき眉を寄せました。
「どういうことだ?」
「江戸にきてから感じたことがあります。それは就職運動をするときに、衣類が粗末だと相手がバカにするということです。上原先生は、前にお勤めになっていたお屋敷にいくのですから、そんなことはないとは思いますが、念には念を入れたほうがいいと思います。わたしのこの着物を着て、就職運動をなさってください」
「………」
上原さんは沈黙しました。しばらく黙って相庭さんの顔を睨〈にら〉みつけるようにみていました。しかし、やがて、「すまないな。実は、わたしも心の中ではそうしてもらおうかと思っていたのだ」と正直にいいました。

相場さんはニコリと笑って、さっさと着ていた着物を脱ぎはじめました。そして上原さんにも着ているものを脱がせ、自分のと交換しました。
上原さんはよろこびました。そして相庭さんの着物を着て上から下までみまわしながら、「ずいぶんとおぬしは立派な着物を着ているのだなぁ。長崎にいたときには思いもしなかったが」と褒〈ほ〉めました。相庭さんは、「でも、それしかありませんよ。一張羅〈いっちょうら。ほんとうの意味は、自分の持っている着物の中でいちばん立派なものをいうのだが、ふつうには、たった一組しかない着物のことをいう〉ですよ」と笑いました。上原さんはいよいよ恐縮し、「すまない。無事に再就職できたら必ずお礼をするからな」といいました。相庭さんは、「そんな必要はありません。長崎でお世話になったのですから、せめてものご恩返しですよ」と応じました。

相庭さんからきれいな衣類を借りた上原さんは、それから毎日元仕えていた大名の江戸の藩邸にいって家老に陳情しました。しかし家老は国元でのできごとをきいていたので、容易に承知しません。しかし、上原さんには好意を持っていたので、「しばらく時期を待て」と返事を保留しました。気の短い上原さんは落胆し、腹を立てました。しかし相庭さんが、「我慢してください。ご家老にもご事情があるのですよ。時が解決します。辛抱して待ちましょう」と慰め励ましました。

こういう状況が2年つづいたそうです。正確にいえば、相庭さんの持っていたきれいな着物も2年のうちにはかなりほころびたでしょうが、繕〈つくろ〉いをつづけたり洗濯をしたりしたのでしょうか、あいかわらずパリッとした身なりで上原さんは陳情運動をつづけました。そして、2年経ったある日、江戸藩邸の家老は上原さんから相庭さんとの友情の話をききました。

家老はびっくりしました。
「いまどき、そんな心の温かい人物がいるのか」とおどろいたのです。
家老は、上原さんの熱意と同時に、それを支えている相庭さんの存在を知りました。そしてふたりの固い友情に感動しました。家老は決断しました。
「わかった。もう通ってこなくてもよい。おまえを再雇用しよう」家老はそういいました。上原さんはよろこびました。その上原さんに家老はこういいました。
「おまえの熱意だけで再雇用するのではない。おまえを2年の間支えつづけてきた相庭さんの好意に報いたいのだ」
「よくわかります。ほんとうにありがとうございます」素直になった上原さんはそう答えました。上原さんも心の中で、(国元でトラブルを起こしたのは、自分の短気な性格にも一因がある。江戸にきて2年間、相庭さんの友情に支えられて、自分の欠点もよくわかった。二度と過ちは起さない)と自分を改革していたのです。

一張羅の着物を上原さんに貸すと、その間、相庭さんは上原さんの汚れ破れた着物を着て、一日中上原さんのこどものお守りをしていたそうです。平洲先生は心の温かい人ですから、こういう知人同士の味のある友情をみて、ほのぼのと自分の心も温めたのでした。

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