平洲塾16「自分を安売りするな」

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ページ番号1004692  更新日 2023年2月20日

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自分を安売りするな

木村貞貫〈きむらていかん〉

今回は細井平洲先生が、おなじ学者で悩み多かった木村貞貫〈ていかん〉という人物に自信を与える助言をした話です。

細井平洲先生の親友だった木村貞貫は、字〈あざな〉を君恕〈くんじょ〉といい、号〈ごう〉を蓬莱〈ほうらい〉と称しました。
「君恕」というのは「君はいつも苦しむ人たちの立場に立ってものを考えなければならない」ということでしょう。「恕〈じょ〉」というのは「相手の立場に立つやさしさと思いやり」のことをいいます。
「蓬莱」というのは、尾張地方に伝わってきた伝説に起因していると思います。尾張国(愛知県)名古屋にある熱田神宮〈あつたじんぐう〉は古くから"蓬莱宮〈ほうらいぐう〉"と呼ばれてきました。蓬莱というのはいうまでなく古代中国で育ったユートピアのことです。尾張藩初代の藩主だった徳川義直〈よしなお〉(徳川家康の九男)は、名古屋城を蓬左城〈ほうさじょう〉と名づけました。蓬左城というのは「蓬莱宮の左側にある城」という意味です。したがって義直にすれば、「自分の領国をユートピアにしたい」と考えていたのだと思います。美しい政治理念です。ですから義直以下尾張徳川家の遺品を収蔵する徳川美術館には、「蓬左文庫」というのがあって、この本館から離れた別棟の建物内には、尾張徳川家の集めた古文書がおびただしく収められています。

尾張生まれの木村貞貫もそういうことを知っていて、「大名その他に学問を教える立場に立つ学者は、やはりみずから恕〈じょ〉のきもちを持ち、この世を蓬莱国にする夢を持たなければいけない」と考えていたのでしょう。基本的には細井平洲先生とまったくおなじです。

木村貞貫はやがて尾張を出て京都にいきました。ここで小さな塾を開きました。教えがやさしくわかりやすいので、大いに流行〈はや〉りました。
あるとき、木村貞貫の存在を知った勝山(安房国〈あわのくに〉・千葉県)藩主酒井忠大〈ただもと〉という大名が、「わしのところにきて、学問を指導して欲しい」と頼みました。そのころの酒井忠大は、大坂城に勤務していました。酒井氏の熱心な招きによって木村貞貫は大坂にいき、さらに江戸にいき、おしまいには安房国の勝山にいきました。忠大はどこにいっても熱心に木村貞貫の教えをきき、家臣たちにもきかせました。

やがてその忠大が亡くなりました。後を継いだのはまだ幼い息子でした。藩の重役たちは木村先生に、「引きつづき、幼い藩主のご指導を願いたい」といいました。木村先生は引受けました。ところがこの幼い殿様は学問が嫌いで、一向に木村先生の話をきこうとしません。駄々をこね、むずかってしまいには、「先生、学問は嫌いだ。下がれ」などといいます。木村先生は弱りました。そこで、仲の良かった平洲先生にこのことを相談しました。平洲先生はちょうど江戸で、嚶鳴館〈おうめいかん〉という私塾を開いていたのです。このことを知った勝山藩の重役たちは、「木村先生は、もっと報酬の高い大名家を探すために細井先生のところに相談にいったのだ」と勘繰りました。そこで嚶鳴館から戻ってきた木村先生をつかまえると、重役たちは、「木村先生、お礼を二倍にしますからどうぞこのまま若君の指導役をおつとめください」と頼みました。木村先生はムッとしました。そして、「わたしは、自分の報酬に不満があって細井先生のところに相談にいったわけではない。若君は、ほとんど学ぶきもちがないから、若君にとってもわたしにとってもムダな時間を使いたくないので、細井先生のところに相談にいったのだ」といいました。
重役たちは納得しません。上目づかいに疑い深い視線を投げ、(そんなうまいことをいっても、ほんとうはもっとお礼が欲しいのだ)と勘繰りました。木村先生はイヤになってもう一度細井平洲先生に相談しました。平洲先生はこういいました。
「木村さん、どんなことがあっても絶対に自分を安売りしてはならない。誇りを持とう」
この一言によって木村貞貫は自信を持ちました。つまり「自分は間違ってはいない」ということです。

そこで、改めて重役たちに、「辞めさせてもらいます」と告げました。重役たちは、「当家を去って、もっと待遇のいい大名家にいらっしゃるおつもりですか」とききました。木村先生は、「そんなことはしない。当面は、紀徳民〈きのとくみん〉(細井平洲の本名)のところに居候〈いそうろう〉になるつもりだ」と応じました。ほかの大名家にいくつもりはないという答えをきいて、重役たちは顔をみあわせました。そしてはじめて木村貞貫の気性を知りました。そうなると、(このうえは、木村先生をぜひともお引き止めして、若君の指導をお願いしなければならない)と思いました。そこで重役たちは若君に意見をし、「これからは、木村先生からまじめに殿様としての心得をお学びください」と諌言〈かんげん〉しました。自分がわがままなために、ゴタゴタが起っていることはすでに若殿も知っていました。若殿も考え直しました。
「わかった。これからは木村先生のお教えをきちんと守るようにする」と約束しました。これによって木村貞貫は勝山藩にとどまり、少年藩主の指導に当りました。

しかし、その指導ぶりは前代の藩主に対するのとはまったくちがい、きびしく厳正なものだったといわれます。これによって、少年藩主も立派に育っていきました。木村貞貫がそういう態度を貫きえたのも、相談にいった細井平洲先生から「絶対に自分を安売りしてはならない」という助言が頭の隅にしっかりと据〈す〉えられ、自信を持ちつづけたためです。

この話は、毎月ぼくが勉強させていただいている『細井平洲・小語』の、111頁以下にあります。例によって、原文をぼくなりに脚色しています。間違っているところは、どうか遠慮なくご指摘ください。

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