平洲塾38「益友と損友」

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ページ番号1004667  更新日 2023年2月20日

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益友<えきゆう>と損友<そんゆう>

天地人というのは古い言葉です。天というのは運、地というのは状況や条件、人というのは人の和すなわち人間関係をいいます。人間が志を立ててなにか大きな事業をおこなおうとするときに、この"天地人"の三条件がととのっていると、割合スムーズに志が遂げられるということなのでしょう。
しかしぼくは、この三つの中でいちばん大事なのは"人"だと思います。そして、この人である"人の和"が大きな輪をつくって広がりを持てば、地すなわち状況や条件も自然にととのってくるような気がします。そして人間関係と状況条件がうまくととのえられれば、いきおい運も向いてくるでしょう。したがって人間がこの世の中に生きていくうえでは、やはり"良好な人間関係"がいちばん大切だと思います。
その意味では、細井平洲先生は実に恵まれた人間関係を保っていました。
しかし、人間関係を良好に保つといっても、いつでもどこでも、だれでもつき合えばいいということではありません。江戸時代の学者は、友人を選ぶ場合に、「益友〈えきゆう〉と損友〈そんゆう〉」という分け方をしていました。益友というのは、「自分にとって得になる友だち」のことであり、損友というのは「自分にとって損になる友だち」ということです。得になる、損になるといっても、別にソロバン勘定ではありません。つまりお金が儲かるとか儲からないという分け方ではないのです。自分の心にとって、あるいは勉学にとって、あるいは人格形成にとって得になるか損になるかということなのです。つまり、自分にとって"学べる人"が益友であり、"つき合うと、自分の人格がどんどん下落していく"といういわば、こっちが害を与えられる友だちが損友なのです。
平洲先生はその意味で益友がたくさんいました。伊藤玄沢〈いとう・げんたく〉、小河仲栗〈おがわ・ちゅうりつ〉、飛鳥子静〈あすか・しせい〉、秋山玉山〈あきやま・ぎょくざん〉、滝鶴台〈たき・かくだい〉、渋井太室〈しぶい・たいしつ〉・木村蓬莱〈きむら・ほうらい〉などです。門人でしたが、平洲先生が友人同様に扱ったのが東白髪〈ひがし・はくはつ〉や山村蘇門〈やまむら・そもん〉でしょう。
この中で、平洲先生が米沢藩主上杉鷹山に頼まれて興譲館〈こうじょうかん〉という学校を造りましたが、この学校の運営や教育方針にして大いに参考になったのが、秋山玉山〈あきやま・ぎょくざん〉だろうと思います。
江戸時代は、各大名家が藩と藩との間にきびしい国境をつくっていましたので、藩はそのまま「くに」と呼ばれていました。いまでいえば、地方自治体なのですが、藩の財政運営が、すべて藩内産品にあるので、いまでいう"企業秘密"が保たれていました。そのために、各藩は最近の政策過程を秘密にしていました。他国に盗まれないために藩境の警備を厳重にしました。その意味では、江戸時代の日本国民は、特別な理由がない限りあまり自由に国内を歩けませんでした。お宮やお寺参りなどは認められましたが、武術の修行と、学問の修行だけはいつどこへいってもゆるされました。したがって、学者の間では交流が活発でした。直接たずねる場合もあれば、手紙を出し合って互いに情報を交換したり、ヒントを与え合ったりしました。細井平洲先生と秋山玉山は、手紙だけでなく、玉山が直接江戸に出てきて、平洲先生の塾に泊ったりして交流を深めました。
秋山玉山は、肥後熊本(熊本県)の藩主細川重賢〈ほそかわ・しげかた〉に仕えました。重賢は江戸時代の名君といわれます。上杉鷹山より少し前に藩内藩政改革をおこないました。このとき、「財政難のときこそ教育が大切だ」といって、時習館〈じしゅうかん〉という学校を建てました。初代の校長に秋山玉山を任命しました。細川重賢は秋山玉山に「時習館の教育方針」として、次のようなことを頼みました。

  • 時習館の先生は、"熊本藩の名大工さん"であること。
  • したがって、名大工さんは材木になってから木とつき合うわけではなく、苗木のときから面倒をみている。おなじ考えで時習館の学生たちを教育して欲しいこと。

この考えが有名な重賢の「人づくりは木づくりである」ということです。
また重賢は、「教育というのは、こちらの岸にいる子どもたちを向う岸に渡すことだ」といいました。向う岸というのはおそらく社会のことでしょう。このとき重賢は、「川を渡すとなると、教育者は得てして橋を架ければいいと思っている。間違いだ」といいました。その理由は、能力や性格によって子どもたちのいる場所が違う、ということです。上流にいる子どももいれば、中流にいる子どももいます。下流にいる子どももいます。それなら、上流にいる子どもには、川が波立っている瀬を示して、「川が波立っているところは浅い証拠だから、履物〈はきもの〉を脱いであそこを渡りなさい」と教えればいいといいます。中流には橋が架けられるでしょう。しかし下流になって川幅が広く深くなれば、橋を架けるのは容易ではありません。「そのときは、舟で渡る技を教えて欲しい」と重賢はいいます。つまりいる場所いる場所によって渡し方が違うという教育を施して欲しいということなのです。
細井平洲先生が、上杉鷹山に頼まれて藩校の「興譲館」を造ったときは、すでに親友だった秋山玉山も死んでいました。しかし平洲先生は、秋山玉山が中心になって、細川重賢とともに「時習館」の教育に努力した事実と、またその考え方などは全部身につけていました。そのために、おそらくそのときに秋山玉山から伝えられたことを、平洲先生は先生なりに消化して、これを米沢藩の興譲館の運営に生かしたと思います。
「自分が唱えた学説なのだから、ひとり占めにしよう」
というケチくさい考え、一種のパテント制にするような考えはこのころの学者にはありません。よいことはお互いに伝え合って、そして別な地域でも活用してもらおう、というのはすぐれた学者の間にありました。いってみれば、「益友同士のヒューマニズム」が、時間と空間を超えて、お互いに活用し合えたのです。だからこそ、たとえば東北の青年が九州のすぐれた学者をたずねたり、逆に九州から東北へいったりするような交流が活発におこなわれていたのです。いま生きているわたしたちも、子どものときから"益友"とつき合うことが大切でしょう。親も子どもに対しては「お友だちは益友を選びなさい」と教えるべきでしょう。

本のご紹介

細井平洲「小語(しょうご)」注釈
平成7年発行 A5判 345頁 1冊 1,120円(別途送料1冊 350円 650g)
「小語」とは、細井平洲自身が見聞きした君主から名もない人物まで、70人余の逸話が漢文で書きとめられた書物。小野重伃(おのしげよ)氏の研究により完成した、平洲研究の原典となる注釈本。

写真:細井平洲「小語」注釈本

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