平洲塾28「善の玉と悪の玉」

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ページ番号1004678  更新日 2023年2月20日

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善の玉と悪の玉

江戸時代、国民の旅はかなりきびしく制限されていました。それは日本の国が約270の藩(大名家)に分かれていて、それぞれの藩が独立していたからです。
いまでいえば藩は地方自治体として「十割自治」を保っていたのです。そのために、住民サービスのための経費を自分で調達しなければならないために、藩内でできる産品に力を入れました。名産品がいろいろと出てきます。ぼくは大胆な結論ですが、「現在の日本の各地域の名産品は、江戸時代に生産された」と思っています。それは、ギリギリな状況に追いこまれた各藩が、官・民・学のいわば三位一体〈さんみいったい〉によって、「チエ」と「アセ」をしぼりながら名産品を育てなければならなかったからです。
名産品もただ名目だけではなく、やはり他国の市場に高く売れるという付加価値の創造に努力しました。しかし、これらの藩における名産品の生産方法は秘密でした。いまでいう企業秘密です。
これが他国に漏〈も〉れるのを非常に警戒しました。そのために藩はとなりの藩との間にきびしい国境をつくり、同時に番所を設けました。したがって、国民の移動はかなり限られていたのです。

例外は、学問の修行と武術の修行です。これは責任者が鑑札〈かんさつ〉(証明書)を出せばどこへでもいくことができました。いきおい、学問の世界と武術の世界は、江戸時代のいわゆる「タテ割り社会」の中で、唯一の「ヨコ割り社会」だったといっていいでしょう。
学問については、どんな遠くの地域でもそこに有名な先生がいれば、「あの先生に学びたい」というきもちを持ち、そのことを官に願って鑑札をもらって出かけていくのです。学者間でもそういう交流がおこなわれました。

細井平洲先生はかなり他国の学者と交流しています。とくに仲がよかったのが肥後〈ひご〉熊本藩の学者秋山玉山〈あきやま・ぎょくざん〉と、長洲藩(山口県)の学者滝鶴台〈たき・かくだい〉です。
滝鶴台にはこんな話があります。

かれには妻がいました。毎夜学習をつづける鶴台の脇で静かにお茶を入れたり、肩を揉〈も〉んだりしました。ある夜、その妻の懐〈ふところ〉から白い糸の玉がころがり落ちました。鶴台がみとがめました。
「その糸の玉は何だ?」とききました。妻は恥ずかしそうにもじもじしています。
「何だね」再度、鶴台がうながすと、妻はこういう答え方をしました。
「この家に嫁にきてから、わたくしはよいことをした日には白い糸を巻き、悪いことをしたときには黒い糸を巻くように心がけてまいりました。たまたま袂〈たもと〉から転がり出てお眼に止まりました。お恥ずかしゅうございます」
鶴台はこの答えをきいて思わず微笑〈ほほえ〉みました。そして興味を持ちました。そこで妻に、「では、黒い糸の玉もみせてくれないか」といいました。妻は黒い糸の玉を出しました。鶴台がみると、ふたつの玉はちょうどおなじ大きさでした。
「大きさがおなじだね」というと、妻はうつむきました。そして、「まだいたらないものですから、よいことと悪いことがおなじようになっております。おゆるしください」と謝りました。鶴台は笑いながら、「そんなことはないよ。おまえさんは立派な人だね」と褒〈ほ〉めました。

細井平洲先生はこの鶴台と大の仲良しでした。鶴台について平洲先生は『小語』の中で、こんなエピソードを書いています。

長洲藩の実力者があるとき鶴台はじめ多くの人を集めて宴会を開きました。このとき実力者は鶴台先生にききました。
「日本と中国と、どちらが治めにくいでしょうか」鶴台はこう答えました。
「それは中国のほうが難しいでしょう」
「なぜですか」
その理由を鶴台は次のように説明しました。

  • 中国には、古代に孔子〈こうし〉という聖人と孟子〈もうし〉という賢人〈けんじん〉がおられ、その教えはいまもつづいています。
  • 中国の国民はこの教えをよく守っているので、聖賢〈せいけん〉の道を知らない人が政治の座に就〈つ〉いてもアレルギーを起こします。そのため政治家もすすんで聖賢の道を学ぼうと努力します。
  • ところが日本では、そんな風習はありません。国民のほうも聖賢の道にそれほど通じていないので、聖賢の道を知らない人が政治を執〈と〉っても何も感じません。
  •  そういう理由で、中国のほうが民度〈みんど〉が高く政治家も油断できないということであり、日本のほうは逆ですから、政治家もあまりものを知らなくてもそのまま権力の座に座れるということです。

これをきいて、座にいる人びとは思わず顔をみあわせました。座には藩の重役がたくさんいました。滝鶴台がいったのは、「いまの 長洲藩の重役は、ほとんど聖賢の道を知らないのに権力を振るい、藩民を苦しめている」という諌〈いまし〉めだったのです。平洲先生は、「滝鶴台さんは、こういうように権力を恐れずにズケズケと悪いことは悪いと直言する人だった」と書いています。平洲先生は自分のことだけではなく、他国の学者であっても、よいエピソードがあれば、どんどん自分の門人やまわりの人に紹介しました。この大らかなきもちが平洲先生を慕う人びとをさらに増やした理由だと思います。

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