平洲塾31「火事と親孝行」

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ページ番号1004675  更新日 2023年2月20日

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火事と親孝行

細井平洲先生が、上杉鷹山〈うえすぎ・ようざん〉に招かれて米沢にいっていたころの話です。藩内に小松村〈こまつむら〉という集落がありました。細井平洲先生の教育方法は、「米沢城内にある藩校に学ぶ者を集めて講義する」というものではありませんでした。自分から藩内の山里〈やまざと〉や遠い谷まで出かけていきます。小松村もそのひとつです。

ここに、伝五郎〈でんごろう〉と大助〈だいすけ〉という兄弟がいました。兄の伝五郎は、江戸で平洲先生に学んだことがあり、その教育方法の素晴らしさをいつも自慢していました。家業を継ぐために小松村に戻ってきましたが、 いつも平洲先生の噂〈うわさ〉をしていました。
兄弟は農業を主業として、かたわら質屋〈しちや〉(金融業)をいとなんでいました。しかしふたりのやり方は変わっていました。

借り手は真面目〈まじめ〉に働いてもなかなかお金が得られない人ばかりでした。農業の仕事をするうえで必要な道具を買ったり、あるいは種を買うときに足りなくなると兄弟に金を借りました。
そのことをよく知っている兄弟は、返せる人の利子はなるべく安くしました。返せない人はいつまでも催促〈さいそく〉しません。やがて借りた人が努力して返しにくると、兄弟は利子をまったく取りませんでした。
そのため借りた人たちが感謝して、「何か恩返しをさせてください」といつも頼みました。兄弟は笑って、「気にしなくていいんですよ。でも、もしうちが火事で焼けるようなことがあったら手伝いにきてください」と冗談まじりにいいました。

ところが、兄弟の家はほんとうに火事になって焼けてしまいました。
「あの家が火事だ、普段の恩返しをしよう」と、村の人たちが先を争って駈〈か〉けつけました。そして兄弟が大事にしている学問の本や道具を全部外に持ち出しました。そのため、兄弟の財産はほとんど燃えずにすみました。
焼け跡が整理されると、兄弟は新しい家を建てました。
ところが前の家に比べるとほんとうに小さな家でした。兄伝五郎のことを知っている平洲先生がやってきました。

平洲先生は前からしばしば兄弟の家を使って村の人たちに講義をしていたので、前の家が相当大きいことを知っていました。つまり大きな家だったから、村の人たちを集めて講義をすることができたのです。平洲先生が新しい家をみてききました。
「伝五郎さんよ、前の家は相当大きかったが新しい家はかなり小さいね。何か理由があるのかね」
これをきくと伝五郎と大助兄弟は顔をみあわせて笑いました。兄の伝五郎がこう答えました。
「前の家は、先祖代々つづいてきたものです。わたしは、前からこんな大きな家は嫌だと思っていたのですが、でもわたしの代で小さくしたのでは先祖に申し訳ありません。ところがこの間の火事でその家が焼けてしまいました。火事で焼けたのなら先祖も文句はいうまいと思います。そこではじめてわたしは自分にふさわしい小さな家に建てかえることができたのです。これも天の恩でしょう」

平洲先生はこの話をきいて感心しました。そして、「この兄弟は、ほんとうに徳の心を持っている。だから、村人から慕われているのだ。わたしは米沢にいるころ、小松村ではよくこの兄弟の家を教場にして村の人に学問を教えたものだよ」と、誇らしげに語りました。親孝行にもいろいろなタイプがあるのですね。

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