平洲塾25「金でなく心でもてなす」

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ページ番号1004682  更新日 2023年2月20日

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金でなく心でもてなす

いま、わたしは『潮』という月刊誌に「へいしゅうせんせえ」という作品を連載しています。へいしゅうせんせえというのは細井平洲先生のことです。当時の庶民が平洲先生に対する呼び方をくだいたものです。時々、読者から手紙がきます。この間いただいた手紙には、「この作品を読んで、東海市の平洲記念館にいきました。館内をまわって感じたことは、平洲先生は、学んだことは、必ず実行するようにとおっしゃっていたことが印象に残りました」という内容でした。まさに平洲スピリット(精神)をきちんと受けとめてくださったようなので大変うれしく思いました。

平洲先生は、上杉鷹山の学問の師として有名ですが、しかし平洲先生がかかわりを持った大名家(藩)は鷹山が藩主だった米沢藩(山形県)だけではありません。四国の西条藩(愛媛県)も親切に指導しました。ここは紀伊徳川家(和歌山県)の分家です。平洲先生が指導したのはそのときの西条藩主松平頼淳〈よりあつ〉でした。頼淳はやがて本家に戻って紀州徳川家の藩主になります。名を治貞〈はるさだ〉と変えました。そんな関係で、今回書く話も平洲先生が紀州和歌山藩か、あるいは直接西条藩からきいたものだと思います。

今回の話のころ、西条藩主は松平頼謙〈よりかた〉でした。当時の西条藩は財政的に苦しんでいました。そこで藩主の頼謙は愛久沢高迢〈あくざわ・こうちょう〉という武士を選んで財政再建の仕事をさせました。愛久沢が真面目で曲ったことが大嫌いだったからです。財政再建のきびしい方策はやはりまわりの人から信用がなければ成功しません。
しかし愛久沢は辞退しました。「とてもそんな力はありません」というのが理由です。

しかし頼謙はゆるしませんでした。どうしても再建の仕事をしなさいと命じました。そのため愛久沢は、「病気です」といって自宅に引きこもってしまいました。
が、仮病を使っていたわけではありません。その間に自分なりの改革案をつくって、文書に仕立てていたのです。十日後に、「病気が治りました。寝ているときに考えた再建案でございます」といって自分なりの考え方を頼謙に提出しました。読んでみると、内容は、「上にいくほど自分の生活をきびしく倹約し、下に苦労をかけないようにすること。下々でよいことをした人間は漏れなく表彰すること。そして、藩内でくらす者は極力借金をさせないようにさせ、どうしても困ったときには藩政府が面倒みること」などと書かれていました。愛民の思想による再建策です。おそらく、頼淳が藩主の時代に平洲先生が指導した考え方がまだ残っていたのです。愛久沢は、そのことを伝えきいたのにちがいありません。頼謙は感心し、「この方法でよいから、ぜひおまえに再建の仕事をしてもらいたい」と改めて頼みました。そこで愛久沢は、「それでは、現地をみさせてください」と頼んで現地にいきました。

それまで愛久沢は江戸の藩邸に勤めていたのです。四国に渡ったかれは西条藩内をくまなく歩きまわりました。
が、かれが歩いて探したのは善行者ばかりでした。親に孝行な者・子育てに正しい躾をおこなっている親・主人に忠節を尽くす従業員などです。調査が終わりましたと報告する愛久沢は、自分が探してきた善行者名簿を頼謙に提出しました。そして、「この名簿に書いた人たちを表彰してください」
と頼みました。ほんとうなら藩内の実情に合った再建策が出されるはずだと期待していたのに、善行者名簿なので藩主の頼謙もちょっと不思議に思いました。その疑問に答えるために愛久沢はこんなことをいいました。
「善行者を表彰するには、やはりお殿様はじめ家臣のわれわれすべてが民から信用されるようにならなければなりません。でなければ、表彰も単なる形だけのものに終わってしまいます。民から信頼されるためには、われわれ自身がゼイタクを禁じ、余らせた金を民のために使うという姿勢を示すことが必要です」
頼謙はすぐれた殿様です。愛久沢のいうことがよくわかりました。

つまり愛久沢のいう「民の信頼を受けるために藩政府と西条藩の武士のすべてが倹約をすれば、財政も再建できるでしょう」ということなのです。愛久沢の真意を察した頼謙は全藩士に対しきびしい倹約令を出しました。そして、「倹約は単なるケチではない。余らせた金を民のために使うことにする」と宣言しました。これがいきわたりました。藩士たちも頼謙の指示に従って一所懸命ゼイタクを禁じました。藩財政はやがて立て直ります。その間、愛久沢は頼謙にこんなことをいいました。
「家中の者は倹約に励み、非常に苦労しております。慰労をしたいと思います」
「慰労とは何だ? 金をかけて宴会でもやろうというのか」
そうきく頼謙に愛久沢は首を横に振りました。そしてこういいました。
「わたくしの家の庭に、見事な桜の木が何本かございます。時期になりますと見事に花を咲かせます。また、古いカエデの木も何本かあります。秋になればこれも見事な紅葉をみせます。春は桜、秋は紅葉をみんなにみせて、慰労したいと思います。金はかけません。しかし、心はかけるつもりです」

頼謙は感心しました。
愛久沢は交代で苦労している藩士たちを自分の家に呼びました。そしてわずかな酒と肴を出して、花か紅葉をみせました。別に藤や椿なども植わっていましたので、春夏秋冬四季を通じてこの庭の植物を楽しむことができます。愛久沢は自分の家の庭を開放して、財政再建に苦労している武士たちを慰労したのでした。武士たちもよろこんで愛久沢の家にいきました。口々に、「愛久沢さんは、金はかけずに心をかけてわれわれをねぎらってくれる」とよろこび合いました。藩主の頼謙は、「愛久沢がつくり出したこういう美しい風習をわれわれはいつまでも大切にしなければならない」と語りました。

愛久沢が死んだとき、多くの人がその柩(棺桶)を担ぎたいと申し出ました。結局クジ引きになりました。クジに当らなかった人はひどく嘆いたそうです。愛久沢の口グセは、「人間は、決して自分に利益をもたらそうとしてはならない。その考えを持つと必ず身を誤まる」でした。こういうように平洲先生の教えは、遠い四国の西条藩にも残されていたのです。

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