平洲塾22「涙ぐましい子猿」

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ページ番号1004685  更新日 2023年2月20日

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涙ぐましい子猿

細井平洲先生が、出羽国〈でわのくに〉米沢(山形県米沢市)藩の藩主だった上杉鷹山の師だったことは誰もが知っています。平洲先生は鷹山に頼まれて新しく藩校をつくりました。藩校の名は「興譲館〈こうじょうかん〉」です。これは平洲先生が『大学』という本の中からとった校名で、「譲という徳を大事にする」という意味があります。譲というのはただ譲るというだけではなく、「他人にさし出す」という積極的な意味があります。

そして平洲先生はいまでいう「本校主義」をとりませんでした。つまり学ぶ者はすべて米沢城内に設けられた学校にきて学べということをいいませんでした。逆に平洲先生が藩内の各地域に出かけていって、お寺の本堂や境内、あるいは村の庄屋さんの縁側や庭を利用して学問を教えたのです。本校主義に対する分校主義といっていいでしょう。しかし分校といっても別に校舎を建てるわけではなく、地域の拠点になるようなお寺や庄屋さんの家をそのまま活用したのです。

なぜこういう地域を重視したかといえば、平洲先生は地域で見聞したことをそのまま鷹山に告げて「あなたが治めておられる国には、こういう美談もありますよ」ということを示したかったのです。同時に悪い例に出会えば「あなたの政治がいき届かないために、こういうふうに苦しんでいる民もいますよ」と教えました。上杉鷹山は子供のときから平洲先生の弟子でしたから、平洲先生のいうことを素直にききます。鷹山自身もいつも米沢城にいないで、ヒマさえあれば領内を歩きまわりました。

鷹山が歩いた後には現在でもいろいろなエピソードが残っています。これは平洲先生が藩内の小国〈おぐに〉(西置賜郡小国町〈にしおきたまぐんおぐにまち〉)で見聞したエピソードです。

小国という地域は山の中なので、村人は猟が主な職業になっていました。とくに猿を獲〈と〉ってその皮を売ることでくらしを立てていました。ある日、甲という猟師が山で猿を殺しました。ところがその猿は母猿だったので、猟師が担いだ母猿の死体を慕って子猿が後からついてきました。猟師は振り返って、シッシッと追いますが、子猿は追われた瞬間に身を隠すだけで、すぐまた姿をあらわし後をついていきます。甲はすこし弱りました。

家に戻って甲は囲炉裏に火を焚〈た〉き、母猿の死体をそばにおいたままやがて寝てしまいました。夜中に妙な気配を感じて眼を覚ましました。眠い眼をこすって囲炉裏の脇をみてアッと驚きました。それは子猿が囲炉裏に手を延ばして自分の手を温めては、転がっている母猿の身体を一所懸命さすっているのです。子猿はまだ母が死んだとは思っていません。自分が温めた手で一所懸命さすれば、必ず息を吹き返すにちがいないと思っているのです。しかし母親は生き返りません。子猿は悲しそうに泣きながら何度もおなじことを繰り返しました。しかし母親はついに生き返りませんでした。

その母と子の猿をみているうちに、甲という猟師は自分も悲しくなりました。そして同時に(おれは本当に猿にひどいことをした)と反省しました。子猿は一晩中おなじ行為を繰り返しました。夜が明けると甲は母猿の遺体を庭にていねいに埋めました。そしてそばでじっとみまもっている子猿に「すまなかったな、母親はもう生き返らない。小猿よ、山へ戻って生き抜いてくれ」と告げました。

その日、甲は近くのお寺にいって住職に頼み頭を剃ってお坊さんになりました。「急にどうしたね」ときく住職に甲は自分のしたことを話し「せめて自分が殺した母猿の菩提〈ぼだい〉を弔〈とむら〉うことが、あの涙ぐましい子猿に対する償〈つぐな〉いだと思いますので」と答えました。

平洲先生はこの母猿・子猿の話を地域の人びとに話しました。そして「おまえさんたちの中には、決してこの子猿に劣るような人間はいないと思うよ』とやさしく釘をさしました。きいている村人たちは思わず顔をみあわせました。

これも例によって平洲先生の『小語』の中にある話です。

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